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サウジアラビア ⑩湾岸危機は続いた [中東の記]

イラクのクウエイト侵攻を受けて一旦日本に退避したが9月中旬家族を日本に残して駐在員のみサウジに戻ることになった。この頃英米は多国籍軍でイラクと対峙すべく着々と準備を進めていた。(砂漠の盾作戦)

サウジ東部地区には空路、海路、或いはバハレーンからコーズウエイ経由続々と兵隊がやって来た。米軍には女性兵士が相当数含まれており、これらの女性兵士は当然ながらアバヤ(黒衣)を着用するはずなく、迷彩服であり、二の腕を出した女性兵士も沢山いた。サウジ東部には米軍中心に年末までに50万人もの軍隊が集結した。

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サウジでは運転するはずのない女性が兵士とはいえ二の腕を出してジープを颯爽とかけているのは、それまでのサウジ社会風景と極端な相違であり正に非常事態と感じた。そんな慌しい中で妻が知り合いの米人女性に、貴女はどうして引き揚げないのかと聞いたところ、息子と娘の二人とも多国籍軍の兵士としてこの戦場にやってきた、親の私が逃げるわけにはいかないと毅然とした態度であった由。

このとき日本政府は勿論軍隊は派遣できないので資金援助のみを行った。「湾岸平和基金」という名目の元で1兆5千億円もの巨額資金を提供した。後日、汗をかかない日本として欧米からは白い目で見られ、クウエイト解放後クウエイトから欧米多国籍軍への感謝の気持ちは表明されたが日本に対する感謝表明はなかった。

汗をかかない日本と言われたが、実は現地に駐在する日本人はちゃんと汗をかいたのです。
サウジ東部に突如として50万人規模のプレハブ住宅建設を含む人工都市が出現した。これに要する上下水道、道路、電気通信設備等々インフラ整備が緊急に必要とされた。

サウジに戻る直前東京の本社で特命事項の通達があった。このインフラ整備に必要となる資器材を現地で米軍将校の指示に従い調達し多国籍軍に納入せよというのだ。購入資金は湾岸平和基金から直接手当てされるので心配しなくて良い、価格を問わず如何に早く調達するかが最重要である、但し他言無用(特に報道には)の丸秘業務であると。

サウジに戻ると早速米軍将校から資材リストを渡された。私が担当したのは上下水道敷設に必要なパイプ等の資器材で、現地のアラブ商人から言い値で買い取り米軍に納入した。アラブ商人で俄か成金が多数出たに相違ない。世界からは、日本は汗をかかなかったと非難されたが「私は汗をかいた!」と今でも思っている。

90年12月頃になるといよいよ戦争開始も近いという雰囲気が漂いだした。会社からは現地対策として事務所の責任者のみ残留し他駐在員はカイロかイスタンブールに退避せよとの連絡がやってきた。事務所には日本人以外の現地職員もいるし取引先企業へのおもねりもありそうしたのであろう。かくして私は一人残ることとなった。

この頃各企業とも限定人数のみ残留していたが、リヤド在の日本大使館からは定期的に巡回訪問があった。残留邦人との情報交換会で、我々邦人は出国するにもビザが必要でスポンサーにどのように説明するかいつも苦労している、次に緊急出国する際は例えば日本政府から「退避勧告」を出してもらえばスポンサーにも話がしやすいが、どういう事態になれば退避勧告を出してもらえるのかと聞いたところ、弾が飛び交えば出しますとの回答。これでは全く話にならず、そもそも弾が飛び交えば民間飛行機は最早飛ばず、どうやって逃げるのかと我々一同唖然とした。だから新聞に逃げ足が速いと書かれても早め早めの行動が必要なのだ。

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サウジアラビア ⑨サダムがやってきた! [中東の記]

1990年8月2日のことだった。突如イラク軍がクウエイトに侵攻した。湾岸危機が始まった。私達が住んでいたアルコバールはクウエイトから南約300kmの地点にあり、イラクが一気に南下してくれば1週間以内に戦地になる可能性があった。

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翌3日私達はまだ危機感が薄かった。英米の行動はすばやかった。英米は緊急事態に備えてまずは帯同家族を引き揚げさせるべくジャンボ機を6時間おきにダハラン空港に着陸させた。通常サウジから出国するためには出国ビザ(EXIT VIZA)を必要とするが、英米はそのような手続きは総て省き(サウジ政府には断ったのであろうが)自国民救出を最優先させたのであった。ジャンボ機がどんどんやってきてコンパウンドの中の英米人が、知り合い家族が次々と姿を消すと私たちも次第に焦ってきた。

日本人は通常の手続きで出国ビザを申請し、定期旅客便を予約する必要があった。出国ビザを申請するためにはサウジの身元保証人(通常はビジネスで関係深いサウジ企業)から出国許可のレターと共にパスポートを返してもらう必要があった。パスポートはサウジ滞在中身元保証人に預けることが義務付けられているのだ。

従い、身元保証人とは友好な関係を保っておかないと意地悪されて出国がままならない事態が発生しかねない。実際問題西海岸のジェダに住む英国人が関係をこじらせパスポートを返してもらえずその当時既に10年サウジに塩漬けになっているとの噂を聞いた。

サウジ人にしてみれば自国を捨てるようなことは勿論出来ないわけで、私達もこの国が危ないから出国するとはストレートには言えない(昨年の東日本大震災時の外国人の日本脱出行動とある意味重なる部分があるが、出入国自由な日本とは真逆の世界)。ある人は夏の休暇を早めに取得する、ある人は日本での会議に出席するため、等々適当な言い訳を考えて身元保証人を説得しパスポートを返してもらい、身元保証人からのレター(サポーテイングレター)と共に政府に出国ビザの申請をした。

ビザ取得に通常でも1週間かかるがこの時は非常時だけに申請が殺到し10日ほどかかってようやくビザを取得できた。家族分も含めてようやくバンコック経由の日本行きフライトが取れたのは8月も既に20日近くなっていた。

その間テレビを通じて緊急事態の通知訓練が放映され始めた。通常番組が突如遮断されオレンジ色の画面に変わり、真ん中に「WARNING」(警告)という大きな文字が現れる、即ち、空襲警報だ、直ちに窓から離れて部屋の中央に移動せよと警告が出る。このような訓練放送がたびたび出るようになった。

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英米の如く緊急事態には国が超法規的措置を取り(当該国の出入国ビザを免除)自国民救出に全力を尽くすことが明確であれば、誰しも安心し如何なる発展途上国にも赴くことができる。緊急事態発生し第一段階として家族を引き上げ、次に様子を見ながら駐在男性を引き揚げるという確固たる方針が国にあるのでビジネスマンもぎりぎりまで当該国に留まることが出来るのだ。

残念ながら我が祖国にはそのようなことは期待できなかったし、21世紀の今になってもまだ日本国政府として海外在留邦人の緊急事態に備えての対策は何もない。

そうして何とかして出国ビザを取得し日本に一時帰国すると日本の新聞には「日本企業は逃げ足が速い」と書かれていた。なんと書かれようとも自分の身は自ら守るしかない、日本政府は当てにならないのだ。

このイラク軍がクウエイトに侵攻した際にクウエイト在住の外国人が「人間の盾」として人質になりイラク国内に連れて行かれた。日本人も多数が人質となりその時から3-4ヶ月イラク国内各地の軍施設に収容された。尚、私の会社のクウエイト事務所長も人質となり家財道具もイラク軍の略奪にあったが何故かゴルフバッグ(クラブ一式入り)は無事だった。どうやらイラク兵士にとってゴルフ道具は無縁・無用のものだったようだ。

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サウジアラビア ⑧日常の中の非日常的風景 [中東の記]

この国ではアルコールは一切ご法度だ。在留邦人仲間で新しく着任したり或いは日本に帰国する人が出ると必ず行うのが歓送迎会。街中のレストランで行うが勿論酒類は皆無。音楽もない。おしゃべりをしながら食事を始めるがアルコールが無いというのは実に効率的というか、味気ないというか、精々1時間もあれば食事は終了。酒飲みにとって酒のない歓送迎会ほど盛り上がらないものはない。

サウジ東部地区の日本人は大人も子供も赤ちゃんも総て勘定に入れても総勢110名前後しかいなかったので、勿論日本食レストランはない。韓国料理店が一軒、中華料理店が一軒、
フィリピン料理店が2軒程度しかめぼしいところがなかった。

中華料理店でも豚肉やラードを使えないので料理の味に深みが足りない。サウジでは羊料理が一番だがその次に人気があるのはやはり鶏肉だろう。我が家でも来客があると鶏肉を調達するが日本と異なるのはその調達方法。

鶏専門の店に行くと生きている鶏がけたたましく鳴いており、その中でよさそうなのを示すと店員がひょいと掴んで円筒形の機器に放り込む、するとたちまち高速回転しほんの数分で鶏は絶命し羽毛は完全に除去されている。何とも無残な処理方法でこの店には子供を同伴できなかった。

私達の家は外国人専用のコンパウンドと呼ばれる一角にあった。コンパウンドにも大小あるが私達のいたところは比較的大きく100世帯位はいたのではないか。サウジ人やパレスチナ人等アラブ諸国の人はおらず、欧米の石油関連や軍関係者に加え日本人が10数世帯いた。コンパウンドの中にはプールやテニスコートもありミニスーパーもあった。この中では女性はアバヤを必要とせず、プールでも水着で泳げるので全く外界とはかけ離れた空間であった。

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多国籍の人間が一つのコンパウンドで生活していると不思議な連帯感も生まれるものだ。サウジは戦闘機やミサイルを米英から購入している関係で米英の軍関係駐在員も結構沢山いた。後に湾岸戦争が始まった時に空母から次々と発進する戦闘機を映したビデオも何気なくもらったものだった。

欧米人もアルコールのない生活は大変に相違なく密かにワインやビールを製造している人も少なからずいた。詳細に書かれたワイン製造レシピを私も頂いた。この素晴らしいレシピのお蔭で、この時期以降、在留邦人仲間の歓送迎会の二次会は決まって我が家で開催されることが多くなっていった。

親しくなった米国人からインコの仲間を一羽もらって家の中で放し飼いにしていた。なかなか頭の良い子で名前は「ペッパー」と言ったが、私が帰宅して車から下りる頃から既に気配を感じているようで、玄関を開けて「ペッパー」と呼ぶと一目散に飛んできて私の肩に止まった。ペッパーは鏡が好きだった。ペッパー専用の部屋に鏡をおいてやると何度も鏡の前でポーズをとり鏡の中の自分の姿に見入っていた。

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或る日取引先企業のサウジ人オーナーの邸宅に呼ばれた。企業のマネージャーは殆どと言ってよいほど欧米人が仕切り、実務をパレスチナ人、インド人、パキスタン人が担当しているパターンが多かった。この企業の事務所もそのような人種構成だったが工場の工員は総てフィリピン人だった。サウジ政府は常に「サウダイゼーション」と称してサウジ人雇用やサウジへの技術移転を叫んでいるが総てのノウハウや技術は外国人から外国人への移転でしかなかった。サウジの若者には職種、職場、職位のえり好みが強すぎた。

このサウジ人オーナーの邸宅だが、さすがにお金持ちだけあってトイレやバスルームの取手等金具類は総て金色に輝いていた。18金でこれだけ装飾すると一体コストはいくらかかったのかと想像するだけで面白かった。更にびっくりしたのは広いリビングルームには大きなバーカウンターがあり、そこには沢山のスコッチやバーボン、コニャック、etc が鎮座ましましていたことだった。特権階級だからとは思うが国としての法令、社会に対する締め付けとは裏腹の現実を見せ付けられて猛然と腹が立ってきた。そうは言っても折角のお呼ばれなので数々の貴重な代物をしみじみと味わったこと言うまでもない。

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サウジアラビア ⑦フラミンゴがやってくる [中東の記]

地上の大半は砂漠や土漠で四季豊かな日本と比べると何とも物足りなく味気ないが、海辺にはささやかな楽しみがあった。

アラビア湾は遠浅で且つインド洋への出口がホルムズ海峡で非常に狭くなっているので、アラビア湾とインド洋との海水の対流が起こりにくい構造となっている。この結果灼熱の太陽にさらされているアラビア湾では海が浅いことも相俟って海水の蒸発が進み塩分濃度が濃くなっていく。

この遠浅の海に時々子供を連れて潮干狩りに行った。やや大きめの蛤があっと言う間にバケツ一杯採れる。これを家に持ち帰り1日以上水につけて塩抜きをやるのだがそれでも滅法しょっぱかった。日本人仲間にも提供するのだがあまり評判はよくない。潮干狩りという遊びが面白いだけで収穫物は人気がなかった。

妻や娘は全身をアバヤ(黒衣)で隠しているが、海に行く時はたまにアバヤの下に水着を着用して行った。アバヤを着用したまま静かに海に入りささやかな海水浴もどきを楽しんだものだ。

この海に冬場は無数のフラミンゴがやってくる。季節の変わり目に空を見上げると遠くにフラミンゴの姿を見かけるようになる。しばらくして海岸線に出向くと遠浅の海に数百羽の淡いピンク色をしたフラミンゴが羽を休めている情景があった。砂漠の国にフラミンゴという取り合わせが妙に不思議な気がしていつまでも見つめていた。ちょっと遠景過ぎてよく分からないがフラミンゴを撮った写真です。

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或る日の夕方、車で海岸線に沿った道を走っていたが薄暗くなった先に遊園地が見えた。日本でも欧米でも遊園地では賑やかな音楽を流しているのが当たり前だが、この国ではそのような音楽は一切流れない、流れるのは一日5回のイスラム寺院からのコーランの声のみ。全く静かで人の気配もなかったので既に営業終了したのかと思っていたが、よ~く見ると薄暗い中で観覧車がゆっくり廻っていた。誰も乗っていないのに廻っているのかと思いつつ更にじいーっと見つめると観覧車には黒いアバヤをまとった人が数名乗っていた。

たそがれの薄暗い中、音楽もない静かな遊園地で全身を黒いアバヤでまとった女性が闇に溶け込みつつ観覧車にじっとすわり回っている風景、やや背筋がすっとしてきた。
思わず家路を急いだ。

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サウジアラビア ⑥バハレーンと繋がった [中東の記]

バハレーンはアルコバールから60KMほど離れた島国で中東の金融センターと呼ばれていた。飛行時間は30分程だが水平飛行の時間は10分あるかないかで離陸着陸に要する旋回飛行の時間の方が長かった。当時バハレンは1987年に発生した大韓航空機爆破事件の実行犯金賢姫(日本名 蜂谷真由美を名乗っていた)が逮捕された都市ということでも有名であった。

そこに海上橋(コーズウェイ)が架けられた(開通後まもなくバハレーン~ダハランのフライトはなくなった)。
コーズウエイの真ん中に国境検問所が出来た。バハレーンは同じ中東のイスラム国ではあるが自由度が高く女性は職場で普通の格好で働いており、アルコールOK,豚肉もOKで日本料理店にはトンカツのメニューがあった。偶の休暇だったり、出張でバハレーンに出かける時は真っ先にトンカツとビールを注文するのが常であった。

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                 (遠くに見える島が国境検問所)

行きはよいよい、帰りが問題。バハレーンではいつ又飲めるか分からないビールやウイスキーを存分に楽しみ、このコーズウエイを通ってサウジに戻るのだが、僅か60KMほどの距離なので1時間程度のドライブで終わってしまう。国境検問所に到着時に酔っ払っていては入国させてくれない(下手すれば留置場入りになるかも)ので素面、または素面を装って通過しなければならない。そうするとバハレーン出発の何時間前まで飲めるのか、呑ん兵衛の意地汚さと戦うことしばしであった。多分アルコールの匂いをぷんぷんさせて顔を赤らめながらもしっかりと受け答えすればパスさせてもらったような気がする。

或る日、日本からの出張者がコーズウエイ経由やってくることになった。待合せ場所はアルコバール市内のホテルロビーだったが予定の時間よりかなり遅れてやってきた。一人のはずがサウジ人とおぼしき同行者がいたので誰だと尋ねると怪しいいきさつを語ってくれた。彼はバハレーンでこれが最後とばかり出発直前まで飲んでいたので国境検問所に着いた時にはすっかり酔いが回り足元もふらついていた由。日本人にしては色白でややぽちゃっとした体形だったことが不運の始まりだった。

検問所で麻薬所持検査をやるからと別室に連れて行かれ服を総て脱がされ生まれたままの姿にされたそうだ。急所へのタッチも含め一通りの検査を受けた結果、一応麻薬所持の疑いは晴れたが、お役人から、こんな酩酊状態で入国しては危ないから私がホテルまで同行してあげよう、と言われて一緒に来たとの説明。

この話を聞いた私はすぐにこのお役人に、同行頂き深謝、ここから後は私が面倒見るので安心してくださいと丁重にお引取り頂いた。タバコを1カートンと日本からのお土産物を寸志として渡した。

もしも私がいなければ初めてサウジに入国した彼は親切な(?)お役人に感激し、ホテルの部屋の中まで同行されあとはどうなったことやら・・・色白、ぽっちゃり体形の日本人は狙われやすいのです。

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戦時下のバグダッド その⑪ゆかいなヌーリー [中東の記]

日中業務で私の車の運転手はヌーリーというイラク人だった。性格は軽めの少しひょうきんな気のいいイラク人で私の子供達ともすぐ仲良くなった。このヌーリーは時々急な休みを取る。理由はいつも「おじさんが亡くなった」という。一体何人のおじさんがいるんだと疑うほど「おじさん」をよく殺していた。

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クウエイトに隣接する南部の大都市バスラに出張する機会があった。バスラは戦場に近いのでバグダッドの日常に比べるとかなりの緊張を強いられる。バグダッドを午前中に出発し途中休憩を取りながら次第にバスラに近づいてくる。夕方になりバスラ方向の空が黄昏れてくると共に遠雷のような砲撃音が次第に耳に近づいてくる。その内行く手方向の上空に対空砲火の花火のような航跡が目に入ってきた。いよいよ戦闘地域に入るんだと思うと身も引き締まってきた。

バスラではシェラトンホテルに泊まった。ホテルは幸い営業していたが建物の壁は至る所銃撃の痕が残っていた。いつでも飛び起きられるよう服も着たままベッドに入った。無事に夜が明けて午前中に予定の業務をこなすことが出来たので昼食を取り次第バグダッドに戻ることとした。シェラトンのレストランでスパゲッテイを食べることにして、ヌーリーに一緒に食べないかと誘った所、スパゲッテイなんて生まれてこの方食べたことないので自分は別で食事すると言ったが、出来るだけ早く出発したかったのでやや強引にスパゲッテイを勧めて一緒に食べた。

出発後1時間半くらい過ぎた頃になってヌーリーが額に脂汗をかき始めどうにも具合悪そうになってきた。大丈夫か、少し休憩しようかと言うといつもの元気はなくして素直に路肩に止めて休憩に入った。20分ほど様子を見ていたが一向によくなりそうにない。このままだとバグダッドに辿り着く前に夜になり危ないのでやむなくヌーリーを後部座席に横にならせて私が運転手となり一路バグダッドに向かった。

バグダッドに入る頃になってようやくヌーリーも正気に戻って無事生還できたが、どうやら生まれて初めてのスパゲッテイにヌーリーの胃がびっくりして胸もむかついてきたというのが真相のようだった。人間緊張している時ほど普段食べなれているものを取った方が良いという教訓だった。

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又或る日、ヌーリーが私の同僚の車を運転してやはりバスラに向かった。同僚が音楽を聴こうとカセットをいじっているとヌーリーが興味を示しカセットを見ているので、同僚はカセットはいいから前を見て運転しろと注意をした。そんなことを繰り返している内に、運悪く路肩を外して車は横転し一回転して止まった。

一瞬の事故に動転したヌーリーは車から降りて路肩に座り込み「バスラはどっちだ」と無意識につぶやいていた。同僚は太ももに切り傷を負ったのでバグダッドに引返すべくバグダッドに向かうトラックを止めて便乗し何とか自力で病院に駆け込むことが出来た。

おっちょこちょいのヌーリーではあるが、運転手の本能は事故にあっても残っていたようで茫然自失としながらも「バスラはどっちだ」とつぶやいたことは後々までの語り草となった。

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サウジアラビア ⑤結婚披露宴に招かれた [中東の記]

まだ妻がやってくる前だったが取引先のサウジ人家族の結婚披露宴に招待された。ホテルのレストランで行うという。指定されたレストランに出向いた。既に大勢の男性客がテーブルに着席しており、そこには豪華なアラブ料理が用意されていた。

一緒に出席したパルスチナ人に新郎はどこにいるのかと聞くと中央のテーブルに座っているのがそうだと言う。新婦はどこだと聞くと新婦は別会場で女性のみの宴会をやっているという。新婦を拝めるのではないかと期待していただけに残念だった。

パレスチナ人がさあ食事しようと言うので周りを見ると夫々に食べ始めていた。司会者不在、新郎の紹介なし、挨拶なし、音楽なし、アルコール勿論なし、ジュースで喉を潤しながら30-40分ほど過ぎたところパラパラと席を立つ人が出始めた。するとパレスチナ人が、さあ我々も行こうかと立ち上がったのでそういうものかと退席した。何とも奇妙な食事会のような男性限定結婚披露宴だった。子羊の丸焼き料理、これだけが唯一の収穫だった。

妻がサウジにやって来た。ある日の夕方妻をショッピングに連れての帰路、いつもと違うルートで帰宅していたところ空き地で民族衣装を着た一団に遭遇した。一体何の集まりだろうと聞いてみると結婚祝いの踊り(結婚披露宴の一部)だと言う。これは面白そうだと見学しても良いかと聞いたところ、男の私は良いが妻はダメだという。女性は別会場でここは男性のみとのこと、しかし相手のサウジ人は機転の聞く人で、奥さんは車のドアの影に隠れていればと黙認してくれたので早速家に急行しカメラを持って引返してきた。

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あっという間に夜が更けていった。一族総出、老いも若きもこのハレの日を満喫していた。「男だけの祭り」というものも悪くはないなとこの時初めて思った。

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ホテルの味気ない食事披露宴とは天地ほどの差があった。これほどの披露宴を行うのはよほどの有力者ではなかったかと思うが、それにしてもアラブならではの夜だった。
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サウジアラビア ④男女席を同じくせず [中東の記]

女性は10歳前後で初潮が始まるとアバヤを着用するようだ。子供から女性になったということか。学校も当然男女別々、女性の教室には男性教師は入れず別室のスタジオでカメラに向かって講義を行う、女生徒はTV画面を通して授業を受けるというスタイル。(その時代の話で現代は少し変わってきているかも・・)
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病院も女性は家族棟、男性は男性専用棟がある。女性の入る家族棟の看護士はフィリピンやインドネシアからの出稼ぎ女性(イスラム信者)が働いている。

会社、事務所、工場総て男性のみの職場。私の職場のお茶汲みはインド人、タイピストと事務職はインド人とパキスタン人、ドライバーはイエメン人、だった。来客時にインド人の真っ黒い腕でにょきっと出されるコーヒー、紅茶はあまり美味しそうな気がしないのは私だけだっただろうか。

取引先のどこに行っても電話しても相手は男性、それも外国人ばかりだ。稀にバハレーンに電話することがあるが、バハレーンでは女性が働いており、電話の向こうで「ハロー」と女性の声がすると通常あり得ない事が起こったようで胸がドキッとしたものだ。

サウジ人の家には玄関が2箇所ある。女性用と男性用だ。勿論応接室も男女別にある。街中のレストランはどうなっているのか、レストランは男性客専用コーナーと家族専用コーナーにきっちり分けられ、お互いに見えないようになっている。アバヤを着用し顔も隠している女性がどのように食事をするのか興味があった。左手でそっとアゴの辺から前に上げてそこにすっとフォークやスプーンが差し込まれていく。見事なものだ。

一度家族でヨルダン旅行、かの有名な死海に行った。早速水着になって泳ぎもしないのに体がぷかりと浮くことに大騒ぎしていたところ、娘や妻の周囲に男性が集まるようになってきた。何とも奇妙な雰囲気になってきたので早々に陸に上がった。後になって気付いたのだが、そこは男性専用の遊泳区域で家族用は別の場所にあったので注意しに来たのだと分かった。ヨルダンは女性の社会進出も活発で職場でも普通に働いていたので、サウジのような男女別々はないだろうと思い込んでいたのが間違いだった。

サウジではムタワと称する宗教警察の活動が活発で、家族でもない男女が同席していたり、女性の服装がみだらであると(アバヤ着用していないとか、腕が露出しているとか)発見次第連行していった。リヤドで勤務しているある日本人が事務所の前でたまたま顔見知りの外国女性と2-3立ち話をしていた所を運悪くこのムタワに見つかり連行され、3日間留置場に入れられた。

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サウジアラビア ③女性にとって住みよいか [中東の記]

今年のロンドンオリンピックには陸上と柔道にパレスチナやサウジアラビアから初めての女性選手が参加したということで話題になっている。
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(サウジ代表、柔道)

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              (パレスチナ代表、800メートル)

又、2015年からサウジ女性にも選挙権が与えられるとの報道も去年あった。
アラブの春の影響もありサウジアラビアでの女性の人権も少しずつではあるが認められてきつつある(はっきり確立するまでは安心できないが)ことは喜ばしい。

イスラムの戒律がサウジアラビアに生まれ育った女性にとってどれほどの制約となり、不自由を感じているのか分からないので、これはあくまでも外国人、もっと言えば私の妻や周囲の外国人女性の感じた不自由さであるが、サウジでの女性居住者にとって最大の不自由さは自由に外出できないことであろう。

公共交通機関はないので車で外出となるが女性には運転免許が与えられない。従って、夫又は家族の男性の運転する車でショッピングやスーパーマーケットへの日常の買い物に出かけることとなる。

早い話、女性が一人でふらふら歩いているというのは羊が囲いから迷い出ているのと大きな違いはない、と言えば言いすぎだろうか。

スーパーマーケットにはアルコールと豚関連を除けばあらゆる品物が揃っている。勿論総て輸入品だ。ノンアルコールビールも種類が豊富だ。

ショッピングセンターや商店街には欧米の有名ブランドは総て揃っている。又、金やプラチナ等貴金属の販売も盛んだ。日本と異なるのはスーパーでもどの商店でも店員は総て男性、それもサウジ男性ではなく、イエメン、エジプト、パキスタン、インド、フィリピン、パレスチナ、等々出稼ぎ労働者で会話はアラビア語又は英語となる。

サウジ人が買い物に行き店員がパキスタンやインド人だと、自国でありながら英語が出来ないと買い物が出来ないというマンガみたいなことになってしまう。
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ショッピングの大敵はサラー(お祈り)の時間だ。一日5回のお祈りの時間があり1回に付き20-40分程度総ての店のシャッターが下ろされ、客は全員締め出され、再び開くまで外で待機するか帰宅するかを迫られる。

この時間を利用しての犯罪が起きることがある。女性は必ずアバヤをまとう(人によっては顔も総て覆い隠す)ことを悪用し男性がアバヤを着用してトイレで女性を拉致し、お祈りの時間に暴行を加えたり最悪殺人にまで至る事件もあった。全員が強制的に外に出され、
突然の密室状態の発生を逆手に取る悪質な犯罪だ。



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サウジアラビア ②砂漠のバラとラクダ [中東の記]

砂漠はサウジ人にとっては極めて神聖な場所であり心の安らぐ場所でもあるようだ。毎週末になると砂漠でテント生活を行うことで世俗の汚れを落としリフレッシュして新しい週を迎えるという人も少なくない。
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砂漠にも色々な顔があるようでリヤド近郊には文字通り「赤い砂漠」が広がっており、サウジではないがUAEには七色の砂があり、この七色の砂を額縁に封じ込めたものを土産品として売っていた。

砂漠には又不思議な自然の贈り物がある。

砂漠のどこにでも有る訳ではないが塩分が濃く湿度のあるべちゃっとした地中で長年何らかの圧力がかかり、大変硬い砂と塩の結晶、それも見事なバラの花のような結晶を産み出す場合がある。通称 Sand Roseという。妻が幾つか採取してきた。
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そして砂漠といえば駱駝、都市の周辺ではあまり見かけないが定期的にラクダ市が開かれ、そんな時期には親ラクダ、子ラクダ、多数集結する。
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普段は次のような風景を見かける。
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