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サウジアラビア ⑳青と白を指定された [中東の記]

湾岸危機の勃発する少し前にコンパウンドの中で親しくなった英国人にパーテイに誘われた。パーテイ参加の条件として服装は青か白の色物を着用することと言われた。この青か白の着用という条件が一体何をさすのか全く分からないまま参加した。現在と違ってインターネットも存在せず調べようもなく不思議なことを言うなあという程度の感覚だった。

パーテイに参加してどうして青と白なのかと聞くと「ヘンリーレガッタフェステイバル」だからだよと当たり前の如く言われて、えっ、それって一体何なのと尚一層訳の分からない状況におかれたことがあった。

後日調べるとヘンリーロイヤルレガッタは150年の歴史を持つ7月のテムズ川の風物詩で青と白がシンボルカラーとなっており、会場のテントやその社交場に参加する人々の服装も青と白のコンビネーションに限定されていることが分かった。

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そのパーテイの最中に英国人が「人頭税」の是非について論争を始めた。時の英国首相だったサッチャーがそれまでの固定資産税に変えて一人頭いくらという人頭税を導入したことに対する是非を論争していた。

固定資産税に比べて明らかに逆進性が強く資産家優遇、貧乏人圧迫という性格を持った税なので大きな論争を巻き起こしたものだった。

日本人で長期に外国に滞在し日本では非居住者で税金の対象外であれば、例え日本で新たな税が制定されたとしてもここまで熱く論争することはあるまいなと思った。英国の場合は湾岸危機でも見事に証明されたが、いざとなれば海外に展開する自国民の安全を最優先に守るという保証があればこそ、どんな時でも自分は英国国民で英国内のことはいつでも自分の問題だとの意識が消えないのだろう。

日本人の場合は(私の場合は)既に日本の非居住者となり日本の税とは無関係であれば、きっとそこまで熱い論争はしないだろうなと思った。一旦国の外に出れば最早自分の身は自分で守る、母国の政府は当てにならないという感覚の染み込んだ人間との違いかなと思った。ここらが世界のどこにいても大英帝国の一員として誇りを持って生活してきた国民との違いではないだろうか。

グローバリゼイションという言葉を日本でもよく耳にするがグローバリゼイションの骨格を構成する原理原則は何か、そこのところを良く考える方が先決かもしれない。

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サウジアラビア ⑲日本とはちょっと違う日常些事 [中東の記]

砂漠の国土だけに人間の居住区であるコンパウンドにも「さそり」が日常的に出没している。私の家のガレージに不要となった段ボール箱を幾つかそのまま放置していたが、或る日子供がそれを動かすとさそりが2匹現れた。大騒ぎである。新聞紙を丸めて渾身の力で叩きのめす、さそりの動きはそれほど敏速でもないので慌てなければ退治できた。

在留邦人妻で勇敢な人がいた。彼女はさそりを見つけると生きたままビンに封じ込める。その後がすごい、さそりの入ったビンを電子レンジでチン!!さそりはその姿のまま昇天する。さそり乾物の完成だ。こういう退治方法を考え出したのはこのご夫人のみだった。

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市内中心地の交差点角に韓国レストランがあった。ここの石焼ビビンバが評判で私たちも週に1-2度は利用するほどお世話になった。レストランの名前は「又来屋」と漢字で書いてあった。あたかも「またおいで」と言われているようでこのネーミングに引かれて通ったのもあったかもしれない。

他にも「パタヤビーチ」という名前のタイレストランもあった。ここのトムヤンクンは味に深みが今ひとつ足りないような気がしたが、あれこれ比べるほどの選択肢もないのでまあこんなものかと自己満足していた。

比較的多くの在留邦人に人気があったのは隣町ダンマンの中華レストランだった。ちょっとした歓送迎会をよくここで行った。豚肉も調味用アルコールもラードも使えない状況下で中の上レベルの味付けを出していたのはよほどコックの腕前が良かったのだろう。

日本からの食料品送付に対する検査はかなり厳しいものがあった。例えば豚の絵があるエースコックの製品はダメだし、当時一番びっくりしたのは「カルピス」が没収されたことだった。理由はごく微量のアルコールが検出されたことだった。そうか、カルピスは発酵飲料なのだと改めて思うと同時によくもまあ検出したものだと感心した次第。
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一週間遅れで日本の新聞が送付されて来るが広告欄の妖しげな部分は総て墨で黒く塗りつぶされていた。例えば女性の水着姿は勿論のこと、普通の服装でも女性の足や手の部分は塗りつぶされていた。サウジの検閲担当者もご苦労なことだなと思っていたら実は日本側で発送前に自主的に規制していると聞かされてそこまでやるのかとあきれた。

家の庭にはデーツの木があった。私と子供達は実が熟してくると採って食べていたが妻に見つかるとお目玉をくらった。というのもコンパウンドでは衛生面でやりすぎではないかと思えるほど徹底しており、ハエ、蚊、さそりなどを駆除するため頻繁に殺虫剤を撒いていた。デーツも白い霧状の殺虫剤の洗礼をいつも受けていたので妻は子供の健康面を心配していたのだ。

タグ:さそり
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サウジアラビア ⑱うすけぼー [中東の記]

或る日コンパウンドの外人仲間で持ちきりの話があった。夫に合流すべく初めてサウジにやって来た妻が空港税関で自分のかばんから堂々とウイスキー3本出して、この国も3本までは無税よね、と念を押したそうな。税官吏はあまりの堂々とした米国人女性の態度に一瞬唖然としたがやおら気を取り直し黙って3本共没収した由。その時までアルコールがダメな国があるなんて思いもしなかったとこの米国人女性もめげてはいなかった。

我が家の命の水製造は秘密保持の観点から家族(子供)にも内緒のプロジェクトだった。一旦仕込むと一日一回は様子を見ながらやさしくかき回してやる必要があった。いつも夜遅い時間に大きな「おたま」を持って秘密の場所に行くのが日課だった。

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ある日娘が学校の作文で書いた内容を見せられた。そこには、うちのお父さんは毎晩大きなおたまを持ってどこかに行きます、「おたま怪人」です、と書いてあった。娘が寝室に行ってから行動していた積もりだったがしっかり見られていたようだ。

夏期の気温が高い時期は発酵も急速に進むので時に度数も高いドライワインとなり、冬場はゆっくりと発酵がすすむので上手くいったときはスパークリングワインとなった。しかし発酵に失敗すれば単なる砂糖一杯のあまいぶどうジュースにしかならなかった。

この国の王族は勿論、一定のレベル以上の有力者の邸宅には溢れるほどの酒類があり一説では世界最大の酒類密輸入国とも言われていた。在留期間が長くなれば何となくその世界の裏事情も分かってくるものだが、通称「三河屋さん」と呼ばれていた人がいた。

屋号に象徴されるように、この方は命の水について文字通り特殊なルートを持っていた。どうしても必要な時には、じゃあ三河屋さんに聞いてみようというのが合言葉になったが大体30-40%程度の確率で入手できた。その手腕には驚きを通り越して尊敬の念すら抱いたものだ。

因みにイスラム諸国でもオフィシャルに酒を禁止しているのはホメイニ革命後のイランやサウジとリビア位のものでその他の国は厳しさの程度に差はあれそれなりに入手できていた。ヨルダン、エジプトやUAEは勿論のことイラクに至っては国産ビールが3種類はあった。バハレーンではトンカツもあった。そういえばバグダッドに住んでいた時、一度闇で豚肉が入ると聞いていそいそと買いに行った。高価な割には硬くてあまりうまくは無かったがあれは野生のイノシシの肉ではなかったかと今では思っている。

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サウジアラビア ⑰ほどほどがいい [中東の記]

ある年の4月29日昭和天皇誕生日にたまたまリヤドにいた。リヤドは首都だけに宗教的な締め付けは他の都市に比べて一段と厳しいが実は密かな楽しみもあることを知らなかった。
それは天皇誕生日には大使館でリヤド在留邦人を対象にしたささやかなガーデンパーテイーが開かれていたことで、この年幸運にも参加する機会に恵まれた。

プールサイドをメイン会場にして大使館コックによる各種日本料理が並べられていたが、何と言っても最大の楽しみはアルコールだ。大使館は治外法権、日本国領土とも言えるのでこの敷地内では堂々とアルコールを嗜めるのだ。ビール、日本酒、ウイスキーなんでもあった。

パーテイー開始に先立ち大使館より注意喚起があった。即ち、この敷地内では今から提供するアルコールを楽しんで頂くのは良いが、皆さんは普段飲む機会が少ないからと言って調子に乗りすぎないこと、空腹状態で急に飲むと直ぐに酔って気分が悪くなったり或いは悪酔いして自己を失う危険もあるので、まずは食事を楽しみながらゆっくりと味わって下さい、そして大使館を一歩外に出るともはや日本ではないので背筋をピンと伸ばし速やかに車に移動しまっすぐに帰宅してください、間違っても大使館外でふらふらしてはいけません、と懇切丁寧な注意喚起があった。

私たちのグループはまずは腹ごしらえをしようとて握り寿司から頂くことにした。冷酒とお寿司というサウジではあり得ないコンビに舌鼓を打った。すぐ隣に男性3人のグループがいた。建設現場から直行してきたかのような制服姿の中年組だったが、見ているといきなりきついウイスキーをがんがん飲んでいた。大使館からあれほど注意喚起があったのに大丈夫かなあと危惧するほどの豪快な飲みっぷりであった。

やがて宴も終わり私たちは多少ふらつきながらも大使館を出るとすばやく迎えの車に乗り込みホテルに戻った。大使館敷地内では賑やかに楽しく過ごすことができたが、一歩外に出ると一気に緊張感が増すのはやはりこの国ならではの感だった。

翌朝事務所に顔を出すと昨夜のパーテイーの話で持ちきりだったが、やはり危惧した事件が発生していた。私たちの隣で飲んでいた中年3人組が宗教警察に引っ張られて今も留置場に入っているとのこと。大使館からの注意にも拘らず飲みすぎたのであろう3人は門を出てから千鳥足でふらふらと歩いているところを待ち構えていた宗教警察に捕まったようだ。後日聞いたが一緒に仕事をしていた某商社に助け出されるまでに3日を要したとのこと。やはり人間ほどほどが一番良いようだ。

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(デーツ林)
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サウジアラビア ⑯バハレーン小旅行 [中東の記]

ある年の正月に1泊2日で隣国バハレーンにコーズウエイ経由遊びに行った。
コーズウエイができたお蔭でバハレーンまで車で1時間程度で行けるようになったが、出国するためにはスポンサーの許可と出国ビザを取得せねばならず精々半年に一度出国できれば上出来であり、不自由さはなんら変わらなかった。それでも禁欲の国サウジアラビアからバハレーンに出ればビールとトンカツにありつけると思えば心はいつも大きく弾んだものだった。

この数ヶ月前にバハレーンで会議があり1泊の予定で出張した。会議が終われば久々のビールを満喫できると楽しみにしていたところ、会議終了間際にサウジで留守番をしている妻から電話があった。インターに通っている娘が学校のシャワー室で床が濡れていたため滑って転び後頭部をしたたか打って病院に運ばれたという。
楽しみにしていたビールも泡と消えて急遽サウジに舞い戻ったことがあっただけにこの時のバハレーン小旅行はことに楽しみであった。

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(コーズウエイ)

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   (バハレーンのモスク)

ホテルのバーでバハレーン空軍のパイロットだという青年二人連れと知り合いになり雑談を始めた。そのうちの一人が近々結婚することになったというので「おめでとう!」と言うと、実は親同士が決めた話でまだ肝心の花嫁とは会ったことも無いんだ・・・とまだまだ結婚しなくてもいいんだがとのニュアンスが強く感じられた。バハレーンのようなアラブの中でも先進的な社会でもこの状況だから戒律厳しいサウジでの男女交際などいつになったら自由になるのだろうか。

バハレーンは小さな島国で石油も少し取れたがそれも今は殆ど枯渇し、非石油産業で国を興している、特に金融業に力を入れていた。

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 (バハレーン最初の油井戸)

バハレーンは古代より海洋貿易が盛んで「エデンの園があった場所」の候補にも挙げられるほど古い歴史を持っている。紀元前3000年から紀元前1000年頃までに造られたと言われる古墳(小さな円墳)が多数広がっている場所がある。残念ながら墓碑銘もなにもなく、ただ単に丸い土饅頭が無数に並んでいるような感じだった。

因みにサウジでも王族も庶民も身分の高低に関係なく亡くなれば平等に扱われる。即ち、予め定められた墓地に亡くなった順番に埋葬され墓碑銘も何も置かれない。従って長い年月が過ぎると最早誰がどこに埋葬されたのか全く区別がつかなくなる。イラクではちゃんとお墓があったがこれがサウジのイスラム教ワッハーブ派のしきたりのようだ。これも又さっぱりしてていいかもしれない。

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 (バハレーンの円墳群)

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又、さえぎるものの無い土漠の真只中に一本だけ大きな木が立っており、地元の人はこれを「命の木」と呼んでいた。文字通りたった一本の木だった。

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  (バハレーンの命の木)
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サウジアラビア ⑮少し遠出の楽しみ [中東の記]

そしてたまに郊外に遠出をすると突如岩山もどきが姿を現したりして、子供達はこれを「アリババの洞窟」と呼んでいた。何千年もの間に風の力で岩が削られて出来たのであろうが360度平らな土地の中でここだけが山のようにそびえていた。岩山の裾部分にはどこの世界にもあるように大きないたずら書きがあった。

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岩の隙間は狭い通路になっていて天井も高く陽も当たらないので空気はひんやりとしていた。ここをすり抜けるように通ることが子供達もそうだが大人の私も結構楽しかった。

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この近所には駱駝や羊の市場があり定期的に市が開催されていた。
日本で言えば牛や豚の市場に相当するのであろうが、品種改良とか肉質改良とかそのような雰囲気は全くなく、いかにも遊牧民が自分達の貴重な財産として育てたものを少しでも高く売りたいという意欲が売り手の目に溢れていた。

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羊達も大人しく買手の現れるのを待っていた。

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少し離れたところには古城もあり、その外側にはオアシス、そして地平線まで砂漠が広がっていた。

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サウジアラビア ⑭近場の楽しみ [中東の記]

車で5分も走れば海岸に出た。海のすぐ向こうはバハレーン、更にその先アラビア湾の向こう岸はイランだ。海岸は遠浅で波はいつも穏やかだった。風景自体は見事なまでに殺風景で茫漠と浅海が広がっているだけだが、砂漠の中で途方にくれるよりもそんな海岸で呆然としている方がよほど気持ち的には落ち着くことができた。

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(潮干狩り海岸)

日本を遠く離れていると不思議なものでこのような海岸に佇んでいると、何となく想いが遠く日本に向かうことがある。この海が日本に繋がっている、あの月は、星は日本で見るのと同じものだと思うだけで心が落ち着いてくる。しんみりとしてくる。不思議なものだ。
その昔、バグダッドの日本人学校運動会で子供達と在留邦人が集まり全員で「ふるさと」や「早春賦」を歌って胸にこみ上げてくるものがあったことを思い出したりする。

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近場での外出と言えば、フラミンゴのやって来る海岸での潮干狩りは子供達にとって楽しみだし、凡そ動物園とは言い難いような「動物園もどき」であっても特に小さな子供達にとってはそれなりに楽しい外出チャンスだったと言える。

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(くたびれた?らくだ)

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(一応動物園の檻)

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(行儀の悪いらくだと記念写真?)

街中には小さな貴金属店が多数あった。夕食後の涼しい時間帯に家族でショッピングに出かけた。買わないまでも金銀細工物や宝石を見て廻るだけでも結構楽しかった。この国に限らず中東各国や、アジアでもミャンマー、バングラ、カンボジア等では、金の値打ちは基本的に重さにありデザインや装飾はあまり意味を成さなかった。従い18金の指輪の一部を切断して目方で店に買い取ってもらう人達も頻繁にいた。

中東の夜の商店街は賑やかだ。誰しも昼間の酷暑は極力外出を避けて夜になると街に繰り出してくる。特に海外からの出稼ぎ労働者は日中の仕事から解放され街中に繰り出すだけでも娯楽代わりの楽しみになるようで、取引先日系合弁企業も夕食後に宿舎から街中への定期バス便を毎日出していた。特にラマダン期間は深夜まで賑わっていた。




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サウジアラビア ⑬コンパウンドでの楽しみは何? [中東の記]

湾岸危機が勃発する以前の日常生活における楽しみ、特に家族にとっての楽しみはなんだったのだろうか。車の免許ももらえず、自由な外出ままならずの女性達は不自由極まりない中でもそれなりにささやかな楽しみを見出していたようだ。

「塀の中の自由」といえば刑務所のようにも聞こえるが、外国人は専用の居住区、コンパウンドで生活することができた。というよりもむしろ体よく隔離されているとも言えない事はないが。このコンパウンド内ではアバヤ(黒衣)をまとう必要もなく自由世界と同様の生活ができた。例えば、プール、テニスコート、体育館、ショッピングストアがあり表面的には日本や欧米と同じ生活をおくれた、極めて限定的な空間ではあったものの。

子供達は日中から元気にプールで泳いでいたが大人は日中の暑さの中では長時間プールサイドには居られずもっぱら早朝や夕方の時間に泳いでいた。

又、プールサイドではしばしば仲の良い家族が集まりバーベキューを行った。ここでのノンアルコール ビールは最初の一杯くらいは喉も渇いているので美味しいがまあそんなに多くを飲める代物ではなかった。ブランドだけは欧州からの輸入物で一流銘柄ばかりだった。

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在留邦人も人数が少ないので日中はビジネス面ではお互いに競争をしながらも、勤務時間外は結構仲良く遊んだ。遊びと言っても外では面白いことは少ないのでちょっとしたことを理由に誰かの家に集まり食事会をすることだった。誰かの誕生日でもいいし、歓送迎会でもいいし、出張者がやって来たことでもいいし、旅行から手土産持って帰ってきたことでも何でも良かった。

そんな時は我が家にあった自家製の秘密の命の水が大いに威力を発揮した。

私の妻はダハランアカデミーというインターナショナルスクールの図書館に時折手伝いに行ってたが、当初は言葉の問題もあり苦労したようだがその内慣れて英米人の友達も出来、次第に図書館に行くことを楽しみにするようになった。

子供の数が極端に少なく日本人学校もなかったので子供はインターに通わせると共に文部省から送ってもらう教科書を参考にして在留邦人婦人による「補習教育」を行った。一応は日本人補習校という名目で一時期私が校長を勤めたこともあったが生徒総数は二桁にもならなかった。サウジ政府が外国人の高等教育を認めていなかったのでインターも中学までだった。欧米人も高校進学に備えて中3になる頃には本国に戻していた。

私も二人の娘を帯同していたが上の娘は中3になる頃には進路を決めざるを得なくなった。家族総てを日本に戻し私が単身生活を続けるか、或いは上の娘を日本か第三国に預けるかの選択に迫られた。サウジから地理的には欧州の方が日本よりも近いので結局英国の寄宿学校に進学させることとなり妻は学校探しに奮闘した。

別の機会に又お話しすることもあろうが結果的に上の娘は中3から大学まで英国で進学しそのまま向こうで就職し結婚するに至った。
 
ところで話は変わるがここでは国籍を問わず女性同士集まってのお茶会も可能だ、日本人が少ないので気が付けば国際交流をすることとなったのは結果オーライか・・・?

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サウジアラビア ⑫戦争が終わった [中東の記]

1991年2月27日湾岸戦争は終わった。翌28日ジェダからダハラン空港へのフライト再開第一便で戻った。ジェダでの退屈な日々から早く事務所に戻り一日も早く正常業務に復帰したかった。

ダハラン空港について空を見上げると太陽の姿はなく一面黒い煙で覆われていた。イラク軍がクウエイトから敗走する際に油田を尽く破壊し燃やしていったので、クウエイト中の油田が炎上し黒い煙がアラビア湾一帯を覆っていた。

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この年の11月にようやく最後の油田炎上が止まるまでの約10ヶ月間、サウジ東部地区は一日とて晴れた空はなかった、煤や油の臭いのしない日はなかった。特に当初の2-3ヶ月は煙が目に沁みて痛くなるし、油の臭いが至る所に染み付いているようで肺の中まで真っ黒になったり癌になるのではないかという恐れもした。

早速利にさとい某日本商社駐在員が小型の空気清浄機を日本から取り寄せ在留邦人に売り歩いていた。瞬く間に売り切れた。ワンルーム用のコンパクトタイプの次は事務所用の大型タイプの拡販も始めた。

アラビア湾で採れる魚で最もポピュラーな魚はハムールという名の白身の魚だったが、この魚も油くさくなり、又、腹の部分に黒い斑点が見られるようになったので誰も食さないようになった。

コンパウンドに戻ると以前にもまして米英軍関係者の姿が増えていた。戦争関連の話やスカッドミサイルの話も多かった。米軍宿舎にスカッドミサイルが直撃して多くの犠牲者を出したが、この時宿舎の周辺にはスカッドミサイルを迎撃するためのパトリオットが3基設置されていたものの、1基は故障中、1基はメンテナンス中で残り1基で対応したが命中しなかったとの話だった。頼りない話である。

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「砂漠の盾作戦」から「砂漠の嵐作戦」と続いた湾岸戦争は終わったが、多国籍軍はバグダッドまで攻め込むことなくサダムフセインは引き続き政権の座に居座った。この中途半端な終わり方が後のイラク戦争へと繋がっていった。

サウジアラビアに再び戦争前の生活が戻ったがそれは決して同じ日々ではなかった。

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タグ:油田炎上
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サウジアラビア ⑪湾岸戦争が始まった [中東の記]

緊迫の度を強めながら年が明けて91年1月10日頃会社から指示があった。間もなく戦争が始まりそうだから危ない東部地区から西海岸のジェダに退避せよ、現地職員も連れて行くか或いは希望者には休暇を与えて本国(インドやパキスタン)に帰国させても良いと。

取引先の日サ合弁企業の日本人責任者がリヤド経由日本に一時帰国する計画だったので、リヤドまで一緒に行動させて頂くこととした。順調に行けばリヤド空港で日本に一時帰国する彼を見送り私はジェダに飛ぶ予定だったが、リヤドまでのフライトが満席で取れず、やむを得ずリヤドまでは陸路移動することとなった。この日本人GMは日本語しかしゃべらないが中々ユニークな人だった。

数ヶ月前にこのGM及び彼の部下数名と一緒にドイツに出張したことがあった。仕事も順調に終わりデユッセルドルフ空港でしばしの名残とビールを楽しんでいたところ、出発時間が2時間ほど遅れるとのアナウンスがあった。その旨彼の部下が報告すると、このGMは「ダメだ、俺はそんなに待てない、30分だけなら待ってやると言って来い」との指示。
部下は面食らったがそこは慣れたもので、はいはい、と言いながらどこぞに消えてしばらく戻ってこなかった。

彼は一時期東部地区在留邦人会の会長をやっていたが、その折日本から医師の巡回検診があり彼がGMをしている日サ合弁企業の会議室を借りて行われたことがあった。数年に一度の日本人医師による検診とあって在留邦人、特に帯同家族にとっては貴重なチャンスなので殆どの家族が受診した。

ところが検診場所となる会議室のある建物の入り口付近にこのGMが椅子に座って、一人一人確認するがごとく私の妻や他の日本人女性が入っていくところをじっと見つめているのだった。在留邦人会会長として些かの間違いも無いように監視するつもりだったのか、職場に一人の女性もいない男社会で急に女性が、しかも日本人女性が多数現れたので無意識に見とれていたのか、その辺は定かでないが女性の間では若干奇異に感じ、後まで語り草となった。

そんな事を思い出しながらも車中和やかに談笑しつつ無事リヤドに到着した。ホテルにチェックインし、明日は朝食を一緒にとりましょうと分かれて朝になったがいつまでもGMは現れなかった。

部屋にも応答ないし日本語しか出来ないGMだからちょっと心配だなと思いつつフロントに聞いてみたところ、なんと早朝タクシーを呼んで東部地区に戻ったとのこと。一体どうなったんだ、何が起こったのかと心配しつつ、到着時間を見計らってアルコバールの彼の事務所に電話をしたところ、意外な事実が判明した。

このGMはサウジから出国すべく予めEXIT VISA(出国ビザ)を取っていたが、ビザの有効期限が過ぎていたことにリヤド到着後気付き慌てて再取得のため引返したことが分かった。日本語しか出来ないと心配していたが、何のことはない、人間いざとなれば何でも出来るものだと大いに感心した。

このGMと別れの言葉を交わすこともなく、リヤドから空路西海岸のジェダに移動した。ここで湾岸戦争終結の2月末まで過ごすことになった。

1991年1月17日遂に湾岸戦争が始まった。毎日毎日米軍の戦略爆撃機B-52が巨体を揺るがせながら離陸していく姿は実に異様で不気味だった。

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多国籍軍の圧倒的な武力の前にイラク国防軍は無力で敗走し2月27日に戦争は終結したがその直前25日にイラク軍の発射したスカッドミサイルが米軍宿舎に直撃し死者28名を出した。この米軍宿舎は私の住んでいたコンパウンドから南に500米ほどの至近距離にあったのでやはりジェダに退避したのは正解であった。

イラクはこのスカッドミサイルをイスラエルやサウジ各地に発射したが大きな被害はなく、命中精度は今一だっただけにこの終戦直前の米軍宿舎への直撃は衝撃的だった。

米国は地対空ミサイル「パトリオット」を配備していたが、このミサイルの撃墜率は前評判ほどではなかったようでこの米軍宿舎直撃でその事がもろくも証明されてしまった。

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