サウジアラビア ⑬コンパウンドでの楽しみは何? [中東の記]
湾岸危機が勃発する以前の日常生活における楽しみ、特に家族にとっての楽しみはなんだったのだろうか。車の免許ももらえず、自由な外出ままならずの女性達は不自由極まりない中でもそれなりにささやかな楽しみを見出していたようだ。
「塀の中の自由」といえば刑務所のようにも聞こえるが、外国人は専用の居住区、コンパウンドで生活することができた。というよりもむしろ体よく隔離されているとも言えない事はないが。このコンパウンド内ではアバヤ(黒衣)をまとう必要もなく自由世界と同様の生活ができた。例えば、プール、テニスコート、体育館、ショッピングストアがあり表面的には日本や欧米と同じ生活をおくれた、極めて限定的な空間ではあったものの。
子供達は日中から元気にプールで泳いでいたが大人は日中の暑さの中では長時間プールサイドには居られずもっぱら早朝や夕方の時間に泳いでいた。
又、プールサイドではしばしば仲の良い家族が集まりバーベキューを行った。ここでのノンアルコール ビールは最初の一杯くらいは喉も渇いているので美味しいがまあそんなに多くを飲める代物ではなかった。ブランドだけは欧州からの輸入物で一流銘柄ばかりだった。
在留邦人も人数が少ないので日中はビジネス面ではお互いに競争をしながらも、勤務時間外は結構仲良く遊んだ。遊びと言っても外では面白いことは少ないのでちょっとしたことを理由に誰かの家に集まり食事会をすることだった。誰かの誕生日でもいいし、歓送迎会でもいいし、出張者がやって来たことでもいいし、旅行から手土産持って帰ってきたことでも何でも良かった。
そんな時は我が家にあった自家製の秘密の命の水が大いに威力を発揮した。
私の妻はダハランアカデミーというインターナショナルスクールの図書館に時折手伝いに行ってたが、当初は言葉の問題もあり苦労したようだがその内慣れて英米人の友達も出来、次第に図書館に行くことを楽しみにするようになった。
子供の数が極端に少なく日本人学校もなかったので子供はインターに通わせると共に文部省から送ってもらう教科書を参考にして在留邦人婦人による「補習教育」を行った。一応は日本人補習校という名目で一時期私が校長を勤めたこともあったが生徒総数は二桁にもならなかった。サウジ政府が外国人の高等教育を認めていなかったのでインターも中学までだった。欧米人も高校進学に備えて中3になる頃には本国に戻していた。
私も二人の娘を帯同していたが上の娘は中3になる頃には進路を決めざるを得なくなった。家族総てを日本に戻し私が単身生活を続けるか、或いは上の娘を日本か第三国に預けるかの選択に迫られた。サウジから地理的には欧州の方が日本よりも近いので結局英国の寄宿学校に進学させることとなり妻は学校探しに奮闘した。
別の機会に又お話しすることもあろうが結果的に上の娘は中3から大学まで英国で進学しそのまま向こうで就職し結婚するに至った。
ところで話は変わるがここでは国籍を問わず女性同士集まってのお茶会も可能だ、日本人が少ないので気が付けば国際交流をすることとなったのは結果オーライか・・・?
「塀の中の自由」といえば刑務所のようにも聞こえるが、外国人は専用の居住区、コンパウンドで生活することができた。というよりもむしろ体よく隔離されているとも言えない事はないが。このコンパウンド内ではアバヤ(黒衣)をまとう必要もなく自由世界と同様の生活ができた。例えば、プール、テニスコート、体育館、ショッピングストアがあり表面的には日本や欧米と同じ生活をおくれた、極めて限定的な空間ではあったものの。
子供達は日中から元気にプールで泳いでいたが大人は日中の暑さの中では長時間プールサイドには居られずもっぱら早朝や夕方の時間に泳いでいた。
又、プールサイドではしばしば仲の良い家族が集まりバーベキューを行った。ここでのノンアルコール ビールは最初の一杯くらいは喉も渇いているので美味しいがまあそんなに多くを飲める代物ではなかった。ブランドだけは欧州からの輸入物で一流銘柄ばかりだった。
在留邦人も人数が少ないので日中はビジネス面ではお互いに競争をしながらも、勤務時間外は結構仲良く遊んだ。遊びと言っても外では面白いことは少ないのでちょっとしたことを理由に誰かの家に集まり食事会をすることだった。誰かの誕生日でもいいし、歓送迎会でもいいし、出張者がやって来たことでもいいし、旅行から手土産持って帰ってきたことでも何でも良かった。
そんな時は我が家にあった自家製の秘密の命の水が大いに威力を発揮した。
私の妻はダハランアカデミーというインターナショナルスクールの図書館に時折手伝いに行ってたが、当初は言葉の問題もあり苦労したようだがその内慣れて英米人の友達も出来、次第に図書館に行くことを楽しみにするようになった。
子供の数が極端に少なく日本人学校もなかったので子供はインターに通わせると共に文部省から送ってもらう教科書を参考にして在留邦人婦人による「補習教育」を行った。一応は日本人補習校という名目で一時期私が校長を勤めたこともあったが生徒総数は二桁にもならなかった。サウジ政府が外国人の高等教育を認めていなかったのでインターも中学までだった。欧米人も高校進学に備えて中3になる頃には本国に戻していた。
私も二人の娘を帯同していたが上の娘は中3になる頃には進路を決めざるを得なくなった。家族総てを日本に戻し私が単身生活を続けるか、或いは上の娘を日本か第三国に預けるかの選択に迫られた。サウジから地理的には欧州の方が日本よりも近いので結局英国の寄宿学校に進学させることとなり妻は学校探しに奮闘した。
別の機会に又お話しすることもあろうが結果的に上の娘は中3から大学まで英国で進学しそのまま向こうで就職し結婚するに至った。
ところで話は変わるがここでは国籍を問わず女性同士集まってのお茶会も可能だ、日本人が少ないので気が付けば国際交流をすることとなったのは結果オーライか・・・?
初めまして。
ダハランアカデミースクールでググったところ、こちらのブログが当たり、拝読致しました。
当方も、ダハランアカデミースクールに小学生の頃、通って、木、金のどちらかに、日本人補習校に行っておりました。
因みに、母が、補習校の先生でした。
差し支えなれば、いつ頃いらっしゃったかご教示頂いても宜しいでしょうか?
以上、何卒、宜しくお願い致します。m(_ _)m
by マッハ-ゴーゴー (2014-07-18 06:28)
マッハ-ゴーゴーさん
ご訪問有難うございました。最近ブログから遠ざかっておりご連絡が遅くなりました。
私が滞在していたのは1987年12月から1991年12月までの4年ですが、家族は1988年春から1990年8月の湾岸危機ぼっ発まででした。マッハ-ゴーゴーさんはいつ頃いらしたんですか?何か記憶に残るようないい思い出はありましたか?
by ちゃあちゃん
by chaachan (2014-08-18 15:25)