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サウジアラビア ⑪湾岸戦争が始まった [中東の記]

緊迫の度を強めながら年が明けて91年1月10日頃会社から指示があった。間もなく戦争が始まりそうだから危ない東部地区から西海岸のジェダに退避せよ、現地職員も連れて行くか或いは希望者には休暇を与えて本国(インドやパキスタン)に帰国させても良いと。

取引先の日サ合弁企業の日本人責任者がリヤド経由日本に一時帰国する計画だったので、リヤドまで一緒に行動させて頂くこととした。順調に行けばリヤド空港で日本に一時帰国する彼を見送り私はジェダに飛ぶ予定だったが、リヤドまでのフライトが満席で取れず、やむを得ずリヤドまでは陸路移動することとなった。この日本人GMは日本語しかしゃべらないが中々ユニークな人だった。

数ヶ月前にこのGM及び彼の部下数名と一緒にドイツに出張したことがあった。仕事も順調に終わりデユッセルドルフ空港でしばしの名残とビールを楽しんでいたところ、出発時間が2時間ほど遅れるとのアナウンスがあった。その旨彼の部下が報告すると、このGMは「ダメだ、俺はそんなに待てない、30分だけなら待ってやると言って来い」との指示。
部下は面食らったがそこは慣れたもので、はいはい、と言いながらどこぞに消えてしばらく戻ってこなかった。

彼は一時期東部地区在留邦人会の会長をやっていたが、その折日本から医師の巡回検診があり彼がGMをしている日サ合弁企業の会議室を借りて行われたことがあった。数年に一度の日本人医師による検診とあって在留邦人、特に帯同家族にとっては貴重なチャンスなので殆どの家族が受診した。

ところが検診場所となる会議室のある建物の入り口付近にこのGMが椅子に座って、一人一人確認するがごとく私の妻や他の日本人女性が入っていくところをじっと見つめているのだった。在留邦人会会長として些かの間違いも無いように監視するつもりだったのか、職場に一人の女性もいない男社会で急に女性が、しかも日本人女性が多数現れたので無意識に見とれていたのか、その辺は定かでないが女性の間では若干奇異に感じ、後まで語り草となった。

そんな事を思い出しながらも車中和やかに談笑しつつ無事リヤドに到着した。ホテルにチェックインし、明日は朝食を一緒にとりましょうと分かれて朝になったがいつまでもGMは現れなかった。

部屋にも応答ないし日本語しか出来ないGMだからちょっと心配だなと思いつつフロントに聞いてみたところ、なんと早朝タクシーを呼んで東部地区に戻ったとのこと。一体どうなったんだ、何が起こったのかと心配しつつ、到着時間を見計らってアルコバールの彼の事務所に電話をしたところ、意外な事実が判明した。

このGMはサウジから出国すべく予めEXIT VISA(出国ビザ)を取っていたが、ビザの有効期限が過ぎていたことにリヤド到着後気付き慌てて再取得のため引返したことが分かった。日本語しか出来ないと心配していたが、何のことはない、人間いざとなれば何でも出来るものだと大いに感心した。

このGMと別れの言葉を交わすこともなく、リヤドから空路西海岸のジェダに移動した。ここで湾岸戦争終結の2月末まで過ごすことになった。

1991年1月17日遂に湾岸戦争が始まった。毎日毎日米軍の戦略爆撃機B-52が巨体を揺るがせながら離陸していく姿は実に異様で不気味だった。

B-52.jpg

多国籍軍の圧倒的な武力の前にイラク国防軍は無力で敗走し2月27日に戦争は終結したがその直前25日にイラク軍の発射したスカッドミサイルが米軍宿舎に直撃し死者28名を出した。この米軍宿舎は私の住んでいたコンパウンドから南に500米ほどの至近距離にあったのでやはりジェダに退避したのは正解であった。

イラクはこのスカッドミサイルをイスラエルやサウジ各地に発射したが大きな被害はなく、命中精度は今一だっただけにこの終戦直前の米軍宿舎への直撃は衝撃的だった。

米国は地対空ミサイル「パトリオット」を配備していたが、このミサイルの撃墜率は前評判ほどではなかったようでこの米軍宿舎直撃でその事がもろくも証明されてしまった。

170px-Patriot_missile_launch_b.jpg


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