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戦時下のバグダッド その④ 不安と楽しみ [中東の記]

妻の不安はいつも早朝にあった。日本人学校のスクールバスがバグダッド市内の各家庭を廻り子供達をピックアップしていくが、時々スクールバスが出発後に空襲警報が鳴ることがあった。学校に辿り着くまでの途中で空襲に遭っていないかと妻の心配事は尽きない。

戦況が急速に悪化した場合の緊急避難ルートは隣国ヨルダン国境まで陸路1000KMを走ることを想定し、その為の危機管理として車のガソリンは常に満タンを心がけると共に予備のタンク(60L)を常備すること、家族一人当たりドルキャッシュで100ドルを持っていること、小さな日の丸を持っていること、パスポートは肌身離さず持っていることを常に心掛けていた。

又、日常生活に於いても通勤(車)経路・時間帯は都度変更することを心掛けた。イラクに限らず発展途上国等治安の悪い地域では待ち伏せ強盗や誘拐のリスク対策上とても大事な対策であった。

子供達の楽しみはたまの休日に出掛ける遺跡へのピクニックだった。日本からの出張者も交え車でチグリス、ユーフラテスに育まれた古代文明の遺跡を巡っていった。バグダッド近郊で最も有名なのは「バビロンの遺跡」で当時まだ発掘途中のまま作業は戦争で一時中断していた。遺跡を歩けばそこかしこに象形文字の刻まれたレンガ破片が落ちていた。
バビロンの遺跡.jpg

通称バビロン街道と言っていた道はバグダッドから南のヒッラに向かう国道で通行量も多いが事故も多発していた。車同士の事故のみならず高速で走行中にタイヤがバーストしてひっくり返り死亡事故に至るケースも多発していた。日本人にも犠牲者は出た。

バグダッドから北のチクリットに向かう途中のサマーラという都市には螺旋階段が延々と空に伸びている塔があった。40-50メートルはあっただろうか、階段は塔の外側にあるが手摺りがないので恐ろしいことこの上ない。妻は絶対に上らなかった。
サマーラの塔.jpg

日本人学校の修学旅行として5-6年生はイラク北部のモスル近郊のハトラの遺跡を見学に行った。ハトラは紀元前1世紀頃に行商人で栄えた隊商都市で至る所に当時の栄華を偲ばせるローマ様式の石柱等があった。キルクークからモスルにかけての北部地域はイラクの一大農業地帯であり、小麦の刈入れ時には大地は一面黄金色に染まり風になびいていた。かつてこの地にメソポタミア文明が栄えた頃、この肥沃の三日月地帯の小麦収穫量は単位面積あたり世界最大だったと言う。風景だけは昔と変わらないのだろう。
ハトラの遺跡.jpg
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