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戦時下のバグダッド その③ 家族帯同 [中東の記]

赴任当初バグダッドは「危険地域」に指定されていたが戦争も小康状態が続くようになり、専ら国境沿いや南部バスラ港周辺での戦闘が中心となっていたので、会社の指定も若干緩和され「準危険地域」となり家族帯同も許可された。小康状態とは言え戦争は継続中であり今から思えば無謀の感も無きにしも非ずだが、早速家族を呼び寄せた。

3歳、小1、小4、を連れて妻はやって来た。いつも深夜到着の定期便は1-2時間遅れるのが常だったのでその夜も遅れを見越して空港に出迎えた所、その日に限って定時到着しており妻は3人の幼子を抱えて深夜のバグダッド空港で1時間以上待たされカンカンの状態であった。初めての中東、戦時下のイラク、深夜のバグダッド空港で一向にやって来ない夫に何かあったのかと一抹の不安を覚え、その内に不安を越して怒りが勝ってきたのであろう。誠に面目ない不始末だった。

戦争で多くの家族が引き揚げていたが幸いにもまだ日本人学校が継続していた。小学生は1-2年で1クラス、3-4年で1クラス、5-6年で1クラス、中学生は1-3年で1クラス、という構成で各クラス共に4-7名程度、それに幼稚園が付属していた。
学校はチグリス川の袂にあり川向こうにはバグダッドに電気を供給する火力発電所があった。発電所はイラン機の空襲目標にもなっていた。

日本人学校の楽しみの一つに運動会があるが、何しろ子供の数が少なすぎて間が持たないので在留邦人は単身赴任であれ独身者であれ可能な限り参加して運動会を盛り上げていた。こういう時に限って不運が起こるもので運動会途中で突然空襲警報が鳴りだすと全員校舎内に退避したが、そうなると警報解除後運動会を再開しても今ひとつ盛り上がりに欠けるのが常だった。
バグダッド日本人学校運動会.jpg
運動会の終わりにはいつも参加者全員で「ふるさと」や「早春賦」を歌った。しみじみと心に沁みた。
在留邦人の心が一つになる瞬間だった。
バグダッド日本人学校卒業式.jpg


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コメント 5

kumpoo

初めてchaachan さんのブログお邪魔して、ビックリ!!
日本人学校の卒業写真を見て、当時の教頭先生(I先生)の息子さんらしき生徒さんが写っているのを見つけてしまいました。思わず「懐かしい!!」と叫んでしまいました。
実は私も当時(1985年ころ)バグダッドに滞在していました。建設メーカーのエンジニアとして、派遣されていて先輩と2人で暮らしていました。男2人暮らしだったので、I先生ご家族に「ろくなもの食べてないんだろう」と、よくお宅に呼ばれてごちそうになっていました。
by kumpoo (2015-02-02 23:26) 

chaachan

kumpooさん ご訪問頂きありがとうございました。
私の駐在は1981-1984だったのでどこかでお会いしていたかも
しれませんね。
それにしても、ムシケラ、マク・ムシケラ、ゼン、ムゼン、とかなんとかほざいていたあの頃が遠い遠い夢のような世界になってしまいました・・・
by chaachan (2015-03-23 09:56) 

kawa

バグダッド日本人学校 懐かしいです。大成建設の5GH・7GHの病院プロジェクトに参加してました。カドミヤの大成キャンプにいたころ
(1984年~1986年)に学校プール修理にフィリピン人たちと何回かいったことがあります。
by kawa (2016-06-15 14:17) 

chaachan

kawaさん

コメント有難うございます。
あの頃のバグダッドは戦時下にも関わらずプロジェクトも結構あって
毎日が忙しく、その忙しさと戦時下にある緊張感とが相俟って
夜になると一日の無事終了を祝って毎晩アルコールのお世話になったものでした。
by chaachan (2016-06-17 22:44) 

I先生の息子

kumpooさん!
会いたいですねえ!
マッチの手品とか教えてくれたのkumpooさんですよね?
両親はまだなんとか頑張っています。
連絡くださいませ。
uf1gators@hotmail.com
by I先生の息子 (2023-04-15 18:49) 

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