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手土産は雑貨がいい [東西徒然の記]

初めての海外出張は1976年のモスクワだった。

時代は米ソ冷戦のピークとも言えるような時でソ連はブレジネフ書記長が磐石の体制を築いていた。ビザ取得には商談相手の政府公団からのインビテーションレターを必要とし、ホテル手配は総て国営旅行社インツーリストに依頼しなければならなかった。東京で宿泊予定期間のホテル代金全額を前払いするとインツーリストが適当にホテルを割り当てるがどのホテルになるかはモスクワ空港到着時に空港のインツーリストデスクに行くまで分からなかった。日本人はホテルモスクワ、又はウクライナホテルを割り当てられることが多かった。

通常二度目三度目の訪問となると到着空港の雰囲気も分かっておりリラックスするものだが、モスクワのシュレメチボ空港だけはいつも緊張した。空港全体が薄暗く、各所に銃をささげた兵隊がいることも空気を引き締めていた。イミグレーションでは軍服姿の官吏がにこりともせず冷徹な目で私を凝視しパスポートをチェックする。何度も見つられる。

シェレメチボ空港.jpg
      (現在のシェレメチボ空港)

ここを抜けるとほっとするが次は厄介な税関が待っている。空港税関では必ず荷物の中身をしつこくチェックされるが、手土産の中から適当に数個渡すと途端に検査がゆるくなり、スムースに通してくれた。税官吏に渡してもいい手土産と個数を税官吏が取りやすい位置に自然な振る舞いでそっとおくのがコツだった。時には仲間の税官吏の分まで要求され余分に取られることもあるのでお土産はいつも多めに手配する必要があった。

当時のモスクワ出張時の必携のお土産品はカレンダー、折りたたみ傘、ストッキング、使い捨てライター、タバコ等だった。日本のカレンダーは印刷がきれいなことで評判よく、特に女性の着物姿カレンダーはすこぶる人気があった。女性用のストッキングも客先への土産として重宝されていた。駐在員が公団幹部との大事なアポイントを取るときは必ずストッキングかカレンダーを秘書に渡していた。

空港にしろ客先公団にしろ言わば次々と現れる厄介な関所を通り抜けるためにはそれなりの通行手形が必要となるが、手形代わりの土産品は必ずしも高価な物は必要でなく、日本ではごくありふれた安価な雑貨類が効果的だった。但し関所の数だけ個数を必要としたのでいつも手荷物は土産品で膨らんでいた。

尚、モスクワ駐在の日本人へのお土産は、相手が子供のいる家族持ちならバッテラ(押し寿司)やカステラ等の日本食は勿論だが意外に喜ばれたのがふかふかの食パンだった。固いパンはどの国に行ってもあるが日本のふかふか食パンは見当たらないのだ。相手が単身生活者ならタバコ、インスタントラーメン、週刊誌などが喜ばれた。

お土産ってやはり相手の気持ち、その土地の事情をよく理解して選ばなきゃいけないとつくづく感じた次第。でももっと大事なのは、そんな不都合が多い土地柄で懸命に頑張っている企業戦士とその家族達の辛苦に寄り添い感謝することかも。
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