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マホメッドの末裔 [中東の記]

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世界史で言えば第一次世界大戦の頃の中東はオスマントルコの支配下にあった。英仏の連合国はアラブ民族の独立を応援する姿勢を取ってオスマントルコに対峙し、英国将校「アラビアのロレンス」と称せられた人物が活躍していた頃、今のサウジアラビアのメッカ、メジナの2大聖地を含む紅海沿岸ヒジャズ地方はイスラム教の始祖モハメッドの末裔フセインの支配する所だった。英仏の後ろ盾を得てフセインはヒジャズの王となり、長男アリはヒジャズ王を継ぎ次男アブドウラは今のヨルダンに、3男ファイサルは今のイラクの王となっていった。

大戦終了後もアラビア半島では部族間の争いが続き1925年リヤド近郊の有力部族サウド家が終にアラビア半島全域を支配するに至った。サウド家の支配するアラビア半島、即ちサウジアラビアという国家の始まりとなった。サウド家は己の支配の正統性を謳うために「Custodian of Two Holy Mosques」、即ちメッカ、メジナというイスラムの二大聖地の守護者と名乗った次第。(いつの世にも大義名分は必要)
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長男は滅びたが次男はヨルダンの地にハシミテ王国として現在に生き延びている。三男ファイサルの赴いたイラクだが残念ながら孫のファイサル2世の時1958年に軍のクーデターにより滅ぼされ共和制となった。イラクではその後もクーデターが起こり最後に1972年サダムフセインが国家を掌握するに至った。

イラクは共和制をとり社会主義体制をとった事で他のイスラム諸国とは異なり女性にとっては歓迎すべき社会となった。即ちサダムフセイン統治下では女性の社会進出は著しく政府公団の管理職にも多くの女性が登用されていた。又、社会主義を採用した結果イスラム色が薄らぎ中近東では珍しくアルコールはOK、国産ビールもシェーラザード他3種類ほど生産され、夜毎に千夜一夜物語を思い返すような世界各国からの踊り子の集うキャバレーがバグダッドの夜を賑わせていた。キリスト教徒も人口の4-5%はおり社会組織の中でも重要な地位を占めていた。因みにサダムフセインの副首相だったターリック・アジズもキリスト教徒だった。

1979年隣国イランでホメイニ革命が起こりパーレビ王朝が滅んだ。イスラム原理主義国家が成立し周辺に波及することを恐れたサダムフセインは1980年12月突如イランに攻め入りここに1988年まで続くイラン・イラク戦争が始まった。この戦争では米国はイラク側に立ち総額約300億ドルの援助を行った。そんなイラクに戦争開始半年後の1981年半ば、バグダッドに赴任したことが小生及び家族の一大転機となりました・・・。




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