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高みの見物をされた [上海雑記]

上海郊外で外資100%の工場を立上げようやく操業も軌道に乗りつつあった頃、自前のトラックも大小6 - 7台になり日々客先への配送に追われていた。中東でもそうであったが中国でも運転手は特殊技能者ということで処遇も一般職よりも少し上だった。例えば客先との会食テーブルに私の運転手が堂々と同席することもしばしばだった。流石にアルコールは飲まないがごく自然な振る舞いで参加し客先含め誰も疑問視していなかった。

同じ運転手でも会社幹部の乗用車を運転する者は特権意識がありそれなりに周囲から尊敬もされていたが、トラック運転手となるとかなり趣が違っていた。中国でもトラック運転手は気が荒く教養レベルも低い者が多かった。トラック台数の増加と共に運転手も増えてくると運転手仲間で諍いも増えてきた。

次第に運転手仲間が二つのグループに分かれて反目しあい、業務にも支障をきたし始めていたが中国人の総務課長も気の荒い運転手が相手だけに手をこまねいていた。そんな折、運転手控え室の机の上に置いていた財布が、本人が10分ほどトイレに行っていた間に消えるという事件が発生した。

自分の財布が消えた運転手Aは、離席した時に控え室には反目するグループに属する運転手BがいたのでBが盗んだに違いないと責め立てたがBは当然のことながら否定した。両グループの抗争はエスカレートし、ついに運転手全員が業務を放棄、やむを得ず外部輸送業者に外注する事態が1週間ほど続いた。両グループの一触即発的状態が続き総務課長も工場長もお手上げ状態となり私に相談をしてきた、というか体よく責任を振ってきたのだ。自己主張が強い中国人だが手に負えないとなると即刻第三者または責任者に振るという特技もあるようだ。

総経理(日本で言えば社長)の私としては他に振る相手もおらず否応なく解決策を考えざるを得なくなった。

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(公園で演説する人を囲む人々)

社内の中国人幹部に意見を求めても後日運転手から恨みを買うのを恐れてか誰も策を提示せず、顧問弁護士に相談しても妙案もらえずで、2日ほど思案をしている内にはっとひらめくものがあった。そうだ、運転手がいるから諍いが起こるのだから、運転手がいなければいいのだと。

そこからの結論は早かった。運転手を全員単純解雇すると不当解雇として裁判沙汰になること間違いないので、会社の経営体制を変更する、即ち経営効率化を目的として自社輸送部門を廃止することとし、それに伴い当該部門に属する人員の合理化を行うこととした。運転手で引き続き雇用を希望する者は工場現場に配置転換することとしたが勿論そんなことを希望する者など一人としていないことは承知の上での決定。

所有するトラックは総て外部の輸送業者に転売し、その輸送業者には転売したトラックを当社専用に使いまわして自社輸送をしていた時と同様の効率配送を行ってもらうこととした。

一連の作業が終わり輸送部門廃止と当該部門人員合理化を発表した。運転手達は予想外の展開に騒然とし、私の部屋にも押しかけてきたが総務課長から淡々と決定事項のみを説明させた。

数日後の夕方帰宅しようと事務所玄関で車に乗り門に近づいた。いつも通りに守衛が私に向かって敬礼し門を開けたその瞬間、門外に潜んでいた運転手の一人がいきなり私の車に突進しボンネットに駆け上がった。両足で力強くバタンバタンと飛び跳ね、両手を大きく広げ大声で何かを叫んだ。右手には千枚通しを持っていた。そしてボンネットから飛び降りるや否や手に持っていた千枚通しでタイヤを次々と刺してしまった。肝心の守衛は体格の良い男だが呆然と立ち尽くしており何の役にも立たなかった。ふと車の中から後ろを振り返ると事務所の1階、2階の窓から大勢の社員が顔を出して見物していた。

後日聞いたところ、解雇された運転手が私に恨みを抱きその日の帰宅時間に門で待ち伏せしてやると息巻いていたとかで社員全員固唾を飲んでどんなことになるかと注視していた由、知らぬは私一人だけだった。

ところで、自社輸送部門を廃止した結果、輸送業務にかかるコストは以前よりも低下し思わぬ成果を生んだ。無駄な残業や、給油費用、修理費用等の水増しがなくなり外部業者と輸送費交渉をするだけとなって逆に事務の効率化にも繋がったのは結果オーライか。

災い転じて福となったが、個人的には社員に高みの見物をされたことが悔しかった。
しかしこの時以降中国人幹部社員の私を見る目に少し変化が生じたようだ。

タグ:スト 運転手
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初詣は入場料を払って [上海雑記]

中国でもやはり初詣は賑わっていた。日本の正月ほど華やかな服装はしておらず普段着のままでお参りする人が殆どだ。上海市中心部にある静安寺という有名なお寺に初詣に行った。大勢の人が初詣に来ていたがお寺への入場料として10元(当時で約150円)取られたのには驚いた。さすが中国、商売の書入れ時は見逃さない。

ここでは日本の何倍もあるような直径の大きな線香をそれも束単位で燃やすために境内一面線香の煙でもうもうとしていた。日本でも束で煙を立てるが中国の束は日本よりも2倍以上大きいと思われ、それを皆一斉に燃やすので尋常な状況ではない。それほどに線香の煙は沢山出るほどご利益が上がるのだろうか?

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中国の正月(春節)は旧暦で祝うので大体一月下旬から二月上旬にかけて新年を祝うことになる。従って日本の正月はここ上海では単なる普通の日々でしかない。12月25日前後から一週間乃至10日程度日本とのやり取りは閑散となるので、毎日が手持ち無沙汰となるが特に大晦日から新年3日までは文字通り開店休業状態だ。

ある年の大晦日の夜にあまりの手持ち無沙汰に参って行き付けのカラオケ(スナック)に飲みに行った。カウンターに座って飲んでいるとその内新年が近づき衛星放送から流れてくるNHK「行く年来る年」で除夜の鐘が聞こえてくる。日本にいれば家族そろって正月を迎えている時刻に異国で一人酒を飲んでいるというのもなんというかやはり一抹の寂しさを覚えるものだ。

でもそんな気持ちに負けちゃあいられない、
ひとり杯をかざし、新年好!(シンネン ハオ)
乾杯!

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八百伴 [上海雑記]

1997年に倒産したヤオハンは90年前後から香港を拠点にアジアに積極的に進出し、上海にも中国第一百貨店との合弁で「中国第一八百伴百貨店」を設立した。そして95年にアジア最大規模の百貨店を上海浦東地区に華々しくオープンした。百貨店の壁面には「八百伴」と大きな文字が誇らしげにあった。現地の読み方は「パーパイパン」なので上海市内どこでもタクシーに乗って「パーパイパン」と言えば連れて行ってくれた。

パーパイパンの各出入り口には屈強な守衛が何人もいて来客の監視と整理に当たっていた。
当時の上海ではまだ珍しい外資の大型百貨店であり、エスカレータも備え、空調も万全、更には当時の中国には珍しい日本式の接客サービスも評判を呼び開店以来大変な賑わいが続いていた。

しかし誰でも入れたわけではない。屈強な守衛が目を光らせ、服装の乱れた者、裸足やサンダル履きの者の入店を拒んでいた。要は購買客と単なる物見遊山客や空調目当ての涼み客とを峻別していたのだ。入り口では入店を拒否された者との間で時々諍いが発生していたが、それでもいつも押すな押すなの大盛況だった。

上海浦東に大型店舗を開業して僅か2年後の倒産だった。創業者W一族の代表は会社の拠点のみならず、自己の居住場所も香港、次に上海に移すなどして、正に今でいうところのグローバリゼイションの申し子のような展開を見せていただけに、その破綻報道には誰しも驚いた。時代に遅れては勿論日の目を見ないが、早すぎてもダメ、半歩先が丁度いいとも言うが、時代に先駆けること少々先を行き過ぎ、又、急拡大をし過ぎたのかもしれない。
グッド タイミングは難しい。誰も過去には戻れない。
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(上海 90年代南京東路の夜の賑わい)

改革開放から30年有余にして世界第二の経済大国になった。この市場を捕まえようと世界各国から押すな押すなの企業進出、大賑わい、国の入り口で守衛が、誰が上客で誰が貧乏なのかと勝手な自己基準で区別し、法治国家ではなく人治国家だと皮肉を言われても一向に気にせず、ひたすら上昇気流に乗って来られた。

勢い余って周辺界隈を巡回し始め、昔からここらは我が一族が往来していた地域だから我がテリトリーだ、我らの核心的利益だと主張し始めた、実際に力ずくで縄張りを引いてしまった場所も出てきた。他方、チャイナドリームが世界屈指の大富豪を生み出す一方で、内陸部農村と大都市富裕層の格差も許容限界を超えつつある。

そのような時に一族の世代交代。一族の権勢が大きくなればなるほど各派に分かれたグループを統制することは難しく自然に骨肉の争いと化してゆく。 敵の敵を味方とし、敵の味方をいち早く排除する、そこには統治に関する普遍のルールはなく自己に都合の良いパワーポリテイックスがあるのみ。

ああ、悪い夢を連想してしまった、こけなければよいが・・・・・・・・・

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黄山で想い出したこと [上海雑記]

1990年に世界遺産登録された黄山は安徽省にあり中国でも有数の観光名所となっている。安徽省は、2000年に始まった国家政策である「西部大開発」で国家の重点的な開発投資の対象となった西部各省と既にかなりの発展を遂げた沿海部との狭間に位置し、当時でも中国有数の貧しさを代表する省の代名詞だった。今では外資企業の進出も始まっているが、当時はこれといった産業もなく痩せた土地と連なる山々のなかで貴重な稼ぎ頭が黄山観光だった。

その黄山に世界遺産登録数年後に家族で行ったことがある。上海から朝の便で省都合肥に飛び合肥からバスで黄山に到着した時にはもう午後になっていた。大小様々な峰を眺めながら歩くとそこは正に水墨画の世界だった。

すれ違う観光客の中に中国系米国人の一行がいたがその中の一人が私達とすれ違うたびに妻の顔をじっと見つめていることに気付いた。不思議に思いながらも深く考えずに頂上付近の宿泊場所で一泊し朝を迎え、出発間近の時間をロビーでたむろしていると再びその中国系米国人一行と出会ったが、相変わらず妻の方を時々観察しているので流石に奇異に思いその人に近づき話しかけてみた。その人は私の妻を昨日見かけた時は一瞬ドキッとしたくらいハワイ在住の知人に瓜二つだったのでどうしてここにいるのだろうか、いるはずないのにと半信半疑で何度も見ていたのだという。世界には自分に良く似た人が二人いるという話もあるがその話は本当かもしれないとそのとき思った。
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2日目は雨模様で天候に恵まれなかったので早めに山を降りて麓にある古村を訪問した。宋の時代に塩の行商で大儲けした一族の村という説明だったが今では古色蒼然とした古びた村だった。建物も朽ち行くままに任せているかのように苔むして昔日の栄華の跡は何も見出せなかった。中国の村々の入り口に必ずあると言っていい門がここにも立っていた。
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話は変わるが上海のいわゆる水商売の世界で働く女性はこの安徽省出身者が多かった。安徽省から出稼ぎに行く場合に最も近い大都会が上海ということなのだろう、どこの店でも出身は安徽省かと聞くと半分以上の確率で当たったものだ。因みに東京で働く中国女性に出身はどこかと聞くと大概の人は上海だという、例え安徽省出身だとしても。天津甘栗が栽培場所ではなく出荷される港(地名)から付けられたように。

或る日カラオケ店としてはまだ早い時刻の20:00頃に行ってソファで飲んでいた。隣に安徽省出身の女性が座り正面にママさんが座っていた。その時ドヤドヤと3-4人の公安が乱入してきた。私に向かってパスポート見せろといい、日本人だと確認すると私に帰れと命令。
何の違法なこともしていないのにと思い抗議しようと立ち上がるとママさんが私を抑えて何も言わずに帰って欲しいというので渋々退去した。

後日ママさんに聞いたところ私の隣に座っていた女性は公安に引っ張られていき、店もかなりの罰金を払わされたという。理由を聞くと中国の法律ではカラオケ店やレストラン等で女性がテーブルの向こう側に座ってサービスするのは良いが客の隣に座ってサービスを行うのは違法であるとのこと、公安に日頃から良い印象を与えておかないとこうして時々嫌がらせの手入れを受けるのだと言う。

この店としては袖の下とかしょば代のような不当な金銭を払うことに抵抗を覚え権力に屈しないために時々やられるのだと。可哀想なのは安徽省出身の女性で身元引受人がいないので1ヶ月近く留置されその間ママさんが毎日食事の差し入れを行い最後は身元保証人になって出してもらったとのこと。留置場の周辺には差し入れる弁当を売る屋台が多数あるようで差し入れの恩恵を受けられない人は一体どうなるのだろうか。

学歴や特別の技術もない農村戸籍の者は自由に都市には移動・転居できず、表面上は不法流入、不法就業になっているので当局はいつでも取締りを行うことが出来る。戸籍の問題は多くの矛盾のごく一部であろうが、13億の民を安定的に生活させ治安を維持し一党独裁体制を維持するためにどれだけのエネルギーを費やし、時には脅し時にはすかし、日夜苦心惨憺をしているのか想像に難くない。昨今の対外示威的行動やデモ発生状況を見るに付け、なかなかこの国も変わることが難しいなと改めて思う。

他方、変わるに変われない、決めるに決められない、ずるずると20年の長きに亘りよどんだ流れに身を任せっぱなしの島国もいよいよラストチャンスを迎えようとしているのだろうか・・・。
タグ:黄山
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今や懐かし壁新聞 [上海雑記]

魯迅公園の近くは古い上海の趣を今に伝えるような界隈が多くある。紅衛兵盛んなりし頃は町中の至るところにあったのだろうが今では見なくなった壁新聞がしっかりと存在していた。最近では新聞紙を大きく広げて掲示板に貼り付けることが一般的だが上海下町にはまだこのような名残があった。記事の内容は良く分からないが地域の共産党支部からの通達めいたものだった。

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(今風の新聞掲示板)

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             (懐かしい壁新聞)

旧日本人街の一角も残っていた。
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           (旧日本人街)

最近では観光客目当てに文化人街と称する昔の町並みを再現したスポットが作られた。戦前に上海で魯迅を含む日中の文化人サロンだったという、かの有名な内山書店も(看板だけだが)出現していた。
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           (内山書店再現)


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魯迅公園 [上海雑記]

90年代半ばの頃の追憶です。
中国上海の魯迅公園は、虹口区の戦前日本人が多く居住していた旧共同租界の近くにある。朝早くから夕方遅くまで多くの老人達が集まってくる。賑やかに麻雀卓を囲んでいるグループもあれば中国将棋を楽しんでいる人もいる。夫々の麻雀卓の周りには大勢の野次馬が熱心に観戦していた。

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                    (麻雀卓とやじうま)

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                      (中国将棋をする人)

右手に筆をもって何やら地面に書いている老人がいた。近づいてみると筆をバケツの水につけて水文字を書いていたのだ。50cm四方程度の碁盤に敷き詰められた敷石に鮮やかに一文字ずつ一心不乱に書いていた。書いてまもなく水は乾燥し字は消えてゆくが見る者をうならせるような達筆だった。近年建物の壁やシャッターへのいたずら書きを多く見かけるがどうせならこのような高尚な書き物をして欲しいものだ。

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そして奥まった静かな場所に魯迅の墓がある。ここまで来ると人々の喧騒も聞こえずしばし時の流れが止まってしまうような錯覚を覚えた。

魯迅公園-魯迅墓.jpg
魯迅公園-魯迅墓-1.jpg
タグ:魯迅 上海
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