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雲南の旅 [上海雑記]

ある年の2月初旬に昆明、大理、麗江と雲南省へ旅してきた。日本や上海は厳寒の季節だが雲南のこれらの地域はまるで桃源郷を思わせるような気候温暖、見渡す限り菜の花が満開で風光明媚、そしてパイ族、ナシ族、チベット族等少数民族の生活の場でもあった。彼ら少数民族では観光客を相手に生計を立てている者も少なくない。中国には漢民族以外に55の少数民族がおり、中には人口が1000万を越す民族もいるし、歴史上この地域がどうして中国の一部なのかと疑問に思えるテリトリーもある。少なくとも高度の自治を約束しても良いような地域・民族が複数あるように思えるのだが。

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(大理の白族)
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省都昆明は観光客で一杯だ、中でも石林観光がポピュラーだ
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大理石で有名な大理を通って麗江に行った。500年前の明時代の街並みが今に残ることで有名で世界遺産にもなっている。90年代後半に既に欧米からここに移り住み定住している若者が少なからずいることに驚いた。ITの普及でこんな中国奥地にいても即時に世界と繋がっていられるのでとても便利であり、大都会に住まきゃならない理由は何もないというのである。ここ麗江で食べたうどんは住人気質と同様に優しい味がした。美味しかった。
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(麗江のうどん屋、鍋焼きうどん)

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(麗江市内を流れる疎水)

現在の中国は沿岸部が大発展を遂げ、雲南省や四川省等内陸部は取り残されているが、悠久の歴史をひも解けばつい数百年前までの上海が貧しい漁村に過ぎなかったことでも分かるように現代の風景とは大きく異なる。黄河文明や揚子江文明が発達した地域から分かるように、中国の文明は内陸部の川沿いから勃興した。ここ雲南省の昆明、大理、麗江といった地域は気候温暖にして揚子江上流域でもあり古代より人々が住み着きやすい環境があったのだろう。

自分達も近視眼的に昨日今日の経験や状態のみを捉えてこの現状が明日、明後日、そして未来へと永遠に続くかのごとく錯覚しがちであるが歴史に学ぶことは多い。

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上海南駅から汽車に乗って [上海雑記]

ある年4月に杭州方面に小旅行に行った。

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社内には日本と同様の優先席もあった。
漢字が共通しているので何となく意味が通じるのは面白い。
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「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり。(上有天堂、下有蘇杭。)」
杭州は春秋の昔から江南の中心地として繁栄してきた街で歴史的な名所旧跡が多くあるが、やはり何と言っても世界遺産となっている西湖周辺の風景がすばらしい。しっとりとした空気の中でゆったりと時間が流れる。大都会上海では得られない贅沢な空間だ。

西湖湖畔の一流ホテルで有名スポーツブランドの2級品即売会に遭遇した。ちょっと見には分からないような欠陥ならまだしも明らかに縫製不良と分かるような品が多く展示されていた。それでも市価の数分の一と言う安さに惹かれて飛ぶように売れていた。
偽物を高値でつかまされるよりは正々堂々としていいのかもしれない。

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                   (西湖)

少し足を延ばせば紹興酒で有名な紹興市がある、ここは魯迅の生家があることでも有名だ。静かな掘割の広がる街で静寂の中にある。聞けば紹興市では車のクラクションは緊急時を除いて禁止されているとのこと、道理で上海のようなクラクションだらけの喧騒とは全くかけ離れた静かな文化都市の趣を呈していた。

昔日の面影を残す建物と掘割の風景の中で時がゆったりと流れていた。
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            (紹興の掘割)

紹興から更に南に下れば寧波に至る。日本からの遣唐使はこの寧波に上陸しはるか長安を目指したという。時代が下って弘安の役ではここから日本に向けて何千もの船が出港していったが無事に帰ったのはごく僅かであった由。日本との交流歴史に於いても深い関係のある場所だ。

寧波には日本のN製鋼が中国との合弁でステンレス事業を展開しており、開業間もない頃初代総経理を表敬訪問したことがあった。当時の寧波は上海からも遠く、又、開業早々で様々な困難があったと思うが、彼は正に勝手の違う中国の諸制度と孤軍奮闘の戦をされていた。開拓者の日々はいつも厳しいが正当に評価されることは少ない。    


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リスク分散 [上海雑記]

中国では昔から潮州や福建出身者を中心に海外への出稼ぎ者が多く、出稼ぎに行ったままその地に定住した華人は通称華僑と呼ばれている。他方、ユダヤ人のように祖国をなくし世界に散らばった民族もいれば、現代でも戦争、内乱等から逃れやむなく難民として祖国を離れる者もいる。更に言えば、その国の政治体制に一抹の不安を感じたり、将来のリスクを覚える人々の中にはむしろ積極的に子弟を海外に留学させたり、家族の一部を国外に移住させる人々もまた世界には多くいる。中国人もその例外ではない。

1997年7月1日に香港が中国に返還されたが、返還に際しての混乱を予想する人もいたし、実際問題として香港中国人の中では家族の一部または全部が海外に移住し、リスク分散を図ろうとする動きが活発にみられた。移住先は米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドが多かった。

香港中国人は英国式民主主義で育ってきたので、返還後の中国統治(一国二制度)の行方に不安を覚える人が多いのも事実だが、台湾人もまた大陸との摩擦、将来に関連して常に危機を身近に感じておりリスク管理に余念がない。

ところで中国人の中でも上海人は最も自尊心が強いのではないだろうか。共通語は北京語だが上海人同士が上海語でしゃべると他の中国人は理解できないと言う。上海人から見れば台湾人などは遥か洋上の島の住人で一段下に見ている傾向がある。他方、台湾人は大陸の中国人を非民主主義で文化レベルの低い中国人だと見る傾向があり、香港中国人が自分達は香港人だというように、台湾人もまた自分達は中国人ではなく台湾人だといっている。

元々台湾に暮らしてきた台湾人は自らを本省人といい、蒋介石と共に大陸からやって来た人を外省人と呼んで区別している。戦後しばらく本省人は外省人に随分痛めつけられたようで確執は根深いものがあったようだ。台湾の総選挙の度にそのしがらみが見えてくる。

台湾の企業から派遣された副総経理(副社長)がいた。常々私に自慢していた。自分は中国語が出来るから日常買い物も安く出来るが、総経理は日本人だからいつも高い買い物をさせられているんだろうと鼻高々だった。あるとき彼がメイドに日用品と野菜・果物類の買い物を頼んでおいた。その中には彼がいつも購入する果物があったが、明細書を見て彼は驚いた。彼の購入単価よりはるかに安かったのだ。メイド曰くは「上海語がしゃべれなきゃあ皆外人よ」と。それ以来彼は私に自慢するのをやめて買い物を専らメイドに任せるようになった。

そんな彼の次に派遣されてきた台湾人副総経理は妻と小学生の娘を帯同してきた。日本人なら日本人学校があるが、台湾人学校と言うのは無いので地元学校に通わせるしかなかった。しかし人口が爆発的に増加している上海では生徒数も急激に伸びておりどこの学校も満杯で入学待機の児童も多数いた。娘を何とか入れたいと思った彼はやむを得ず学校長にかなりの寄付金(袖の下)を提案しようやく受け入れてもらった。

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             (上海市内の小学校)

彼の妻は台湾の裕福な家庭に育ったようで日本びいきでもあり、お茶とお花の修行のために数年間東京に留学した経験を持ち日本語もぺらぺらだった。ある朝用事があって彼の家に電話をすると彼女が出てきて「いつもお世話になっております、今代わりますのでお待ちください」と流暢な日本語で返されたときは驚いたほどだ。その彼女が夫の尽力もあり、ようやくの思いで娘を上海の地元学校に入れてまもなく決断した。こんな程度の低い学校に行かせるわけにはいかないと。そこからの行動が日本人には少し理解が難しいが、ほどなく彼女は娘を連れてニュージーランドに移住してしまった。

上海に単身生活を余儀なくされた夫はそれ以降休暇のたびに台湾を飛ばしてニュージーランドまで出かけていった。なんでも定期的にニュージーランドに行ってないと妻や娘の定住資格に影響するからとの理由を言っていた。家族の将来、台湾の将来を考えてある程度裕福な台湾人はこのような思考をするのかと驚いた。妻は決断し夫はひたすら働きつつ妻の指示に従いベストを尽くす、どの国も変わりは無いようだ。

日本人で一族のリスク分散を考えたのは真田幸村親子に代表される戦国武将ぐらいしか私は知らないが、FAR EASTの島国で撃ちてし止まん、一億総玉砕、などと近視眼的な叫びがつい最近まであった。国家の命令に従順であることもひとつの生き方だろうが、国家が国民の安全を確保してくれる保証などどこにも無いことを考えれば、国民自らが己の打開策を常々考えておくことも必要かもしれない。

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    (さあ、出発だ!)
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雑技と京劇 [上海雑記]

雑技と京劇、どちらも中国古来の大衆演劇の類であろうが、私は上海に住んでいたこともあり、上海雑技がこよなく好きだ。

雑技はサーカスとは異なり個人、個人の長年のたゆまぬ努力の結晶、個人技が特に優れ、その優れた個人技をグループで見事に調和させ、まるで神業のごとく披露する。何度見ても飽きず、むしろ見るごとに新たに感動する箇所が増えてくるから不思議なものだ。

中でも中年のおじさんが大きくて重そうなかめを頭に載せたり右肩から左肩へと軽々と転がして見せたり、大きく頭の上に放り上げ軽く背中で受け止めたり、ひょっと気付くと水を満々とたたえていたりと、なんでもないように軽々とやって見せるが実は大変に難しい技ではないかと思えてくる、お主、なかなかやるのう、と一人合点したものだ。

中国では各地に雑技の養成所があり素質のある子供を幼少時から特別に訓練し、その中から更に選抜していくのだという。体が柔軟な者は柔軟さを活かし、力があるものは力を活かし、バランス力が優れた者はバランスを活かしと、優れた個性を極限にまで最大化する。

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京劇はストーリーの単純さと見た目の派手さが分かりやすく面白い。特に次々と瞬時にお面が変化したり衣装が変化するのは誠に単純に大衆受けして気持ちが良い。京劇にもしみじみと心の奥深さを演じるものがあるようだが残念ながら私はまだ観ておらず機会があれば是非観たいと思っている。

文化大革命では江青から特に目の敵にされ他の伝統芸能と共にひどく弾圧されたようだが、近年目覚しく復活しているようで喜ばしい。雑技、京劇にしろ、心の豊かさを助長するような文化がもっともっと大きく広まれば人々の心のありようもまた大きく変化していくのではなかろうか。

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タグ:雑技、 京劇
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老人の朝 [上海雑記]

上海でも老人の朝は早い。市内各地の公園やビルの広場で早朝から三々五々集まってきた老人がおしゃべり、自己流体操、太極拳、社交ダンスなど夫々に分かれ、思い思いに時を過ごしている。中国の朝の風物詩として観光案内書にもよく記載されている風景だ。

日本の老人も朝は勿論早いが中国のように公園や広場に大勢出てくるようなことはない。この違いは長年の生活文化の違いなのかなあと漠然と考えていたが、或る日誰かに言われてなるほどそういうこともあるのかなと合点がいった事があった。日本の住居も広いとはいえないが上海のような中国都市部での住宅事情に比べればはるかにましと言える。30-50M2ほどの住居に老人と子供夫婦や孫が一緒に生活しているとそれはやはり狭く何かと不便なこともあろうことは想像に難くない。

そこで老人は気を利かせて朝早く外出し公園などで時をつぶす、子供夫婦に貴重な時間を提供するのだと、例え今日はあまり出て行きたくないなあと気分が優れないことがあっても、子供夫婦に気を使って気を取り直して出かけることも多いとの事。だから一旦外に出ると少なくとも1時間以上は時をつぶさなくてはならないのだと。老人は老人で一生懸命気を使っているようだ。

同じコインでも表から見るデザインと裏から見るデザインは全く異なる。

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尚、中国では年老いた親の面倒を見るのは末っ子が多いようだ。親が年老いたときに長男よりも末っ子の方が若く体力もあり長く面度を見られるから自然の理にかなっていると聞いたことがある。なるほど、そういう考え方もあるのかと目からうろこで、長男の自分は弟にこの話しをしてやろうと思ったことがあったが、僅か2才違いでは五十歩百歩かなと思い直し話すのをやめた。

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運転免許はどうやって [上海雑記]

上海の交通事情は今も昔もひどいもので車はクラクションを鳴らしっ放し、歩行者は信号無視で横断、自転車も我が物顔。会社のルールは運転してはいけないことになっていた。従い会社の運転手はまず私の家に自転車で出勤し私の家の車庫にある社有車に乗り換えて私と共に会社に向かい帰りはその逆を辿ることが日課だった。

90年代後半に歩行者のあまりの行儀の悪さ(信号無視)に業を煮やした上海政府は、横断歩道以外で道路を横断しようとして車との事故が発生した場合は歩行者が悪いとみなすとの条例を制定してしまったぐらいだ。

1年365日何事も無く終わればよいが、世の中は常に突発的事件や非常事態が起こりうる、ましてここは日本国外、魔都上海、危機管理は常に怠るべからず、が私の信条だったので、万が一の事態に備えて中国の運転免許を取っておこうと思い立った。

調べると日本の免許を持っていれば実技試験は免除され、筆記試験と身体検査を受ければよいことが分かった。そこで早速申し込みを行い中国人の総務課長を伴って試験会場に出向いた。筆記試験場で係官から、試験は英語で受けるか中国語で受けるかと質問があったので、即、中国語で受けると回答、但し私は中国語が出来ないので通訳をつけてよいかと聞くとOKとの返事だったので総務課長に通訳を頼んだ。

総務課長は私の横に立ち試験問題を一つ一つ通訳してくれた。そして手には運転教本を持っており試験問題の通訳と同時に答えも一緒に教えてくれた。そして私は難なく満点を取ることが出来た。次に外国人も受け付ける病院に行った。総務課長が病院内の通路の椅子を指してここで待っていてくれと言い残し医者のいる部屋に入っていった。

少したってから総務課長が医者を連れて姿を現し私を指差して医者に何やら話したと思ったら、医者が突然私を点呼するかのように人差し指を私の方向に向けて、「よし!」(中国語で「好(ハオ)」)と言った。その一言で身体検査は終了した。目の検査も無かった。

最近日本で、日本語の出来ない中国人多数が運転免許を取得しようと携帯と超小型の無線による受信機等を使ってのカンニングを行なったと報道されたが、それからすれば当時の中国はなんともおおらかだったと言うべきか、或いは総務課長が袖の下を使ったのであろうか、今となっては想像するしかないが・・・

尚、免許は取得したが結局5年間の滞在中自分で運転する機会は一度も無かった。運転しなければならない機会が来なかったことを吉とすべきであろうか、或いは免許取得は全くの無駄であったのであろうか。

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(路端の行商人)
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ゴルフ今昔 [上海雑記]

今年の日本女子オープン選手権で中国のフォン・シャンシャンが初日から首位を独走し完全Vを遂げた。6月の全米プロも制しており正に破竹の勢いだ。23才だから1995年当時は6才だったことになる。当時の上海には近郊の青浦に1ヶ所だけゴルフ場があった。そのゴルフ場でプレーしていたのは専ら日本人、韓国人、台湾人、香港人が中心で中国人は殆ど姿を見なかった。ビジターのプレー費が800元だったが当社の工員の初任給が500元だったことを思えば中国人にとっては文字通り縁の無いスポーツだったと言える。

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   (日本女子オープン優勝のフォン・シャンシャン)

上海一帯は揚子江河口のデルタで山が無くどこまでも平地が広がっている。従ってゴルフ場を造成するときはコースの左右の地面をまず掘り起こしフェアウエイを造成することになるので、必然的に掘り起こされた部分は水路や池となる。上海近辺のゴルフ場は至る所にウオーターハザードがある!ボールを1ダース持参して全部なくす人も少なからずいた。

1995年からの5年間程度の間に中国にもゴルフブームが起こり経済成長と共に上海周辺にも瞬く間に台湾系、日系、香港系等資本による10ヵ所以上のゴルフ場がオープンした。夫々に特徴があった。日本では絶対ありえないようなコースが浦東にできた。フェアウエイを横切るようにコースの端から端まで人間の背丈以上の高さの石垣が築かれ、キャリーで越さない限り通過できなかった。人はその障害を万里の長城と呼んでいた。

又、そのゴルフ場には頂上を白い小石で固めた富士山と呼ばれる小山をフェアウエイに築いたコースもあった。山の上にボールが駆け上がると大層難儀をさせられた。色々と工夫をして客を呼ぼうとの努力だろうがあまりにも奇異すぎてあきれるばかりだった。

次々とオープンする新設ゴルフ場のキャデイの質も悪かった。一番あきれたのはグリーンに乗ったボールをマークする際にボールの前にマークされたことだった。池の周囲には子供が待ち構えており池ポチャをやるとすぐさま池に飛び込んでボール探しをしていた。子供達にとっては結構な稼ぎになっていた。

嘉定区にできた日系のゴルフ場のコース途中の茶店には冬場にはおでんと熱燗がおいてありこれが何よりの楽しみだった。

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当たり屋に遭遇したのもゴルフからの帰りだった。青浦ゴルフ場からの帰途、赤信号で車が止まりかけた寸前に横をふらふらと走っていた自転車がよろよろと車に倒れこんできた。
運転手はすぐに停車した。自転車は車に接触して倒れた。自転車に乗っていたのは60才前後の中国人だったが倒れたまま「痛い、痛い」と叫んで起き上がろうとしない。

運転手は私に向かって、総経理が残っていると厄介なことになるのでタクシーで先に帰ってくれと言う。車が外車(アウデイ)で外国人が乗っていると金になるのでこのような当たり屋が時々発生するのだと言う。

翌日会社で運転手に聞いたところ、やはり小遣い銭要求でどこにも怪我をしておらず追い返そうとしたが後に尾を引いても厄介なので小遣い銭を渡して立ち去らせたとのことだった。金になるなら何でもやってみようとの精神には恐れ入る。

爾来20年足らずして中国の選手が全米プロや日本女子オープンを制覇するようになるとは正に隔世の感がある。スポーツに限らず経済も政治も科学も総て、盛者必衰の理を表しているのかもしれない。

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すきま風ひゅうひゅう [上海雑記]

中国の住宅バブルもかなりはじけてきたようだがつい最近まで日本を凌ぐ億ションや豪壮な戸建住居、別荘が林立し即日完売してきたことは記憶に新しい。だがつい20年近く前までは全く異なる環境だった。

先日も触れたが1996年春に上海で最初に入居できたのは1LDKで家賃45万円だった。木造二階建ての4戸一の構造だった。建物の真ん中に入り口と階段があり、一階、二階に左右一部屋ずつの構造だった。日本のアパートでも良く見かける構造だ。各部屋にはバス・トイレの他にエアコンも一応付いていた。

このエアコンは勿論中国製で電力消費の割にはあまり効かなかった。大きな音は立てるが夏場の冷風はあまり期待できず、特に冬場の暖房には困った。室外機が設置されているがサーモスタットに水が使われていたので外気温が氷点下に下がると氷となり暖房が止まってしまう。寒ければ寒いほど暖房を必要とするが、外気が氷点下になれば効かなくなるという無茶苦茶なエアコンだった。室外機が止まるたびに管理事務所に電話し氷を溶かしてもらわねばならなかった。

私の住居についていた空調設備は多分エアコンなど使ったことのない人が設計し、ユーザーの視点など全く考慮されずに生産されたに違いない。

当時の中国は国策として上海(揚子江)を境にして北部は暖房(石炭)、南部は冷房設備を常設することが一般的であり、上海はその中間地帯としてどちらでもなく、冷え冷えとした冬の上海をしのぐことは結構大変なことだった。

その時から2年ほど遡ったある冬の日に事業会社を設立すべく候補地の鎮政府の書記(日本で言えば村長または町長)とのアポイントを取り訪問した。約束の時間に役所に出向き応接間に通され待っていると書記が外套を着て姿を現した。外出の格好をして姿を現したので、これはいったいどいうことだ、私とのアポイントをキャンセルするのかと思ったが、これは実は私の早合点だった。

当時の上海は、役所も企業も快適な暖房設備などは皆無で、寒さを凌ぐために事務所内でも外套を着たまま業務を行うことが一般的だったのだ。しかも結構隙間風がひゅうひゅうと入ってきて寒かった。この鎮政府の応接間でもお茶が出た。テーブルの上に空の湯飲みが置いてあり中には茶葉が入っている。そこに給仕がやってきて馬鹿でかいポットから熱湯を注ぐ。湯飲みにふたをする。頃合を見計らい蓋を少しずらして茶葉が口に入らないようすする。これが結構難しい。茶葉が1枚2枚口に入ってきてもあわてず騒がず静かに噛み締め飲み込んでしまう。大概は白湯に近いようなお茶だが部屋全体が冷え切っているのでホット心も休まる。

私の住居でも、隙間風がひゅうひゅうと入ってくるということは隙間が多いということであり、蚊やハエの侵入がひどかった。更に随分後になって分かったことだが、蚊やハエの侵入は建物の隙間以外にエアコン室外機からのダクトを経由することが一番の問題だった。新聞紙を丸めて毎日毎晩蚊と格闘することが重要な日課となり、白い壁はいつの間にか叩き潰された蚊で黒ずんでいった。今日は何匹やっつけたと次第に戦果を誇るような気分になるのも不思議なものだった。

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             (下町のドライクリーニング店)
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やりようも色々 [上海雑記]

その頃保税貨物に対する税関の規制が強化され対策に苦慮していた。中国国内市場を対象にした製品いついては、輸入材料は輸入関税を、製品売上には増値税(付加価値税)を支払う義務があったが、中国で加工後最終的に輸出される製品については、材料輸入段階から再輸出にいたるまで総ての取引を保税(税の支払いを留保)のまま転売することが出来た。

この為には関係する各社が保税台帳をもち税関認証を受けながら台帳から台帳に転記する(転廠手続き)必要があった。経済の過熱化を抑える一環でこの転廠手続きが厳格化され所要時間が長期化する傾向になっていた。勿論ある程度の在庫を持っているが次第に綱渡り状況になり危機感を募らせていた。

そんな折当社担当が何度も税関に通っているうちに解決のヒントを掴んできた。担当税関のマネージャーの妻が勤務している会社が鉄スクラップを扱っているとのこと。戦後の日本でもそうであったが当時の中国でも鉄スクラップの需要は強く持ってさえいれば引く手あまたの売り手市場だった。

当社は鉄を加工していたので日常的にスクラップが発生しており、これを定期的に入札形式で販売していたが、入札業者リストにこのマネージャーの妻の会社を加えようというのが当社担当の意見だった。早速連絡を取ったところ喜んで入札に参加してきた。程なくこの業者が3回に1回程度落札するようになった。そうするうちに難儀していた税関手続きが見事にスムースに運ぶようになって来た。

中国には「上に政策あれば下に対策あり」ということわざがあるが正にそれを実感する出来事だった。勿論このアイデアを提案してきた当社社員の賞与も増え関係者総てハッピーになった次第。

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スクラップといえば当社のスクラップ販売は当初男性社員が担当していたが、市況の上がり方に比較して販売単価が若干低いような印象を持っていた。そこで担当を女性に変更してみた。女性が担当してからすぐに単価が上昇し始め市況に同調するようになって来た。或る日この女性担当者から相談したいといってきた。スクラップのバイヤーから自分名義の預金通帳を渡され、預金残高もこんなにあるがこれはどうしたものだろうかと。

勿論私としては、そんなものは即刻業者に返しなさい、もらったりすると必ずやあなたの将来に悪い影響を及ぼすだろうと話した。そして、前任の担当者にどうして急に単価が上がってきたんだろうねと少しいやみを言ってみたが、さあどうしてでしょうねと敵もさるもので堂々としていた。新担当の女性の賞与を増やし、前担当の男性賞与を減額したこというまでもない。

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悲しいできごと [上海雑記]

90年代半ばの上海は昇り行く龍のごとく経済は急拡大し市内至るところ建設ラッシュに沸いていた。新たに居住する外国人も急増し外国人用住居が極端に不足していた。当時は外国人の住む地域や住居にも制限があり、又、電気やガス等光熱費についても外国人用単価が別途割高に設定されていた。公園や博物館等施設への入場料も中国人と外国人と別々の単価設定になっていた。

私も赴任当初住居がなく約一ヶ月ホテル住まいをし、その後ようやく入れた住居は、1LDKで家賃45万円(1ヶ月)も取られた。外国人用の高層マンションが次々と建設されていった。古い住居や畑があっという間に取り払われ、瞬く間に無味乾燥な人工都市に変化していった。周辺にはレストランやカラオケ、日本人向け居酒屋、或いはデパート等便利な施設は数多くあるが、まるで人工的であり生活空間を囲む自然的優しさは皆無だった。

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(竹で足場を組んでいる)

新しく出来たマンションに取引先メーカーの駐在員が運良く入居できた。早速家族も呼び寄せようと準備を進め、念願の家族帯同一週間ほど前に急に入ってきた1泊2日の地方出張を終えて帰宅し、ドアを開けたところ床一面にガラスが散乱していた。空き巣でも入ったのかと一瞬疑ったがよく見ると天井に吊り下げられていたシャンデリアが落下していた。一週間後に家族が来てからだったら大変なことになっていたかもしれないと彼は肝を冷やした。

私の部下に語学研修を兼ねて駐在していた独身で勢いのある若者がいた。独身だけに接待の席に借り出されることは勿論同僚と一杯飲んで帰ることも多く帰宅はいつも深夜だった。
彼が入った住居も完成したばかりの高層マンションの23階だった。深夜疲れた体を引きずりながらエレベータに乗ろうとすると故障中で動かないことが1週間に1-2度は必ずあり、その都度23階まで階段を一段ずつ上がるのはまるで地獄の責め苦だといつもぼやいていた。

(いずれのケースも新築物件は危ないことを示唆している。3-4年経過した物件の方が欠陥も出尽くし改善されているので安心できる!)

上海近郊に日本から同業他社が5-6社進出し互いに競争していたが、当社と同じ行政区に進出してきたK社とは中国進出企業としての共通問題も多く、特に税関を相手にするような問題はお互いに情報を持ち寄って共同戦線を張ることもしばしばだった。

そのK社に40才前後で外語大出身の中国語のプロがいた。業界共通問題について地元政府や税関に陳情に行ったり、新しい法規制の説明を受けに行ったりする時は彼に通訳をお願いすることが多く助かった。いつもにこやかな表情を崩さず、他社の人間だからといって厭な顔も見せず真面目に取り組んでくれた。日本に妻と子供を残して2回目の単身赴任だった。彼も同じような真新しい高層マンションに住んでいた。

ある朝出社してまもなくK社から彼の突然の訃報を伝えてきた。
前夜K社では出張者があったので総経理(社長)も入り数名で夕食を共にすることになり彼も参加した由。じゃあ2次会にいこうとの話になった時、彼は、今日は自分の誕生日でこの後日本にいる妻や子供から電話が来る予定なので失礼するといって帰宅した。帰宅した彼は電話がかかってくる間を利用して風呂に湯をためておこうと思ったようだ。風呂の給湯器に点火した後、ソファで休んでいる間に一杯飲んでいたこともあり、つい寝込んでしまったらしい。

彼の妻が約束の時間に電話をしたが応答なく、その後数度にわたり電話しても何の応答もないまま翌朝になった。妻は翌朝再度電話したがやはり応答なかったので少し不安になり、急な出張でも入ったのかなと思いつつ総経理(現地法人の社長)に問合せの電話をしたのだった。電話を受けた総経理は胸騒ぎがして直ちに彼の家に行きソファに横になったままの彼を発見した。

給湯器の不完全燃焼による一酸化炭素中毒であった。

邦人の死ということで領事館からも検死にやって来たが、毎年上海で5-6名の在留邦人が一酸化中毒で死亡しているとのショッキングな話もあった。給湯器の排気口が外に出ていないことやガスの点火口が詰まりやすいこともあり、事故防止のため給湯器は中国製を使わず日本製を取り寄せる人も増えてきたことをその時に初めて知った。

葬儀は日本で行われる為上海での仮葬儀に参列させていただいた。一酸化炭素中毒特有のピンク色の肌をしており、まるで眠っているかのようであった。
次々と建設される上海高層マンション群ならではの悲しい出来事のひとつだった。

尚、私は当時の中国の高層マンションを信用しておらず、空調設備は不完全でも、やぶ蚊やゴキブリが多少多く出ても既存木造家屋の方を信用し住居としていた。市の中心部からはやや離れており周囲にレストランやショッピングセンターもなく少し不便ではあったが、敷地内には緑が多くテニスコートやプールにゴルフ練習場も完備していたので、高層マンション群に住むよりは良かったかもしれない。


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(外国人専用のビラ)
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